●はじめて地元のマックに入ってみた。近くの席で中学生くらいの女の子が携帯に向かって喋っていて、きっと気になる男の子とかが相手なのだと思うのだが、猫なで声というのか、喋っている内容も含めて、いかにもかわいくつくった調子の、聞こえてくると気恥ずかしくなる感じの(発情した、と言うべきか)声が聞こえていた。しばらくして、隣のテーブルにも中学生くらいの女の子の二人組が座った。先輩と後輩という関係のようだった。その先輩の方が、その声が気に障ったようで、あきらかに携帯で喋っている女の子のことを言っているのが分かる感じで、しかも、あきらかにその女の子にも聞こえるような声で(というか、あきらかにその女の子がそれを聞くことを意識して)、「なんか男に媚びてるのとかってきもいんだよねー」とか、「男の前だと態度変わる奴いるよねー」とか言い始めた。いやーな空気が流れた。
うわーっと思っていたたまれなくなってそそくさと席を立った。こういう感じで、自分の感情に人(や場)を巻き込まないと気が済まない奴っているよなーと思った。この二人が知り合いで、普段から学校とかでも反目し合っているとかいうのならまだ分かるのだけど、携帯の方の女の子の反応から、そういうことでもない感じだった(見ず知らずの相手という感じ)。こういう人って、自分に実害のない相手に、あいつ生意気だから焼き入れようぜとか言い出すんだよなー、と、中学の教室空間での空気や人間関係の嫌な生々しさを久しぶりに思い出した。
常識的に考えれば、二人で来ているのだから、後輩に向かって、「なにあれきもーい」みたいに悪口を言い合えばそれで気が済むと思うのだど、でもその子にとっては、自分がその場にいることによって受けた感情は、何かしらの形でその場に対して影響を与えるように返さなければ、感情の落としどころとして気が済まないのではないかと思う。というか、それが自然なのだろう。つまり、「自分の感情」そのものと、多数の第三者たちによってつくられている「その場そのもの」とが切り離されていないのだろう。それは確かに、幼稚な自己顕示欲のようであり承認欲求のようでもあり(他にも、高校生くらいの男の子とかが公共の場でぎょっとするくらいに大きな声で笑ったりするのも、そういうことだろう)、勘弁してほしいとも思うのだけど、でもそもそも、感情というのはそういうもので、つまりある場や関係のなかで集合的に作用・反作用するもので、個人の内面にあるものではないんじゃないかという気もする。この時、「きもい」と声を上げなければ気が済まない女の子にとって、携帯で喋る女の子は他人ではなく、場によって繋がっている半ば自分(発情した自分)であって、だから彼女を無視したり陰でバカにしたりすることによってでは気が済まず、何かしらのアクションを(「相手」だけではなく、「その場」に波及するように)起こさずにいられないのではないか(そしておそらく、このような反応を生んでしまう携帯の女の子もまた、「きもい」と声を上げる――抑圧する――女の子と他人ではないのだと思う)。そして、この女の子(たち)の方が、動物としての人としての感情の発露としては自然で、ぼくみたいに、ほんの小さい頃からこういうのが嫌で仕方ない(そういう、人対人の関係から外れたところに居たい)というのは、動物としての人としては異常なことなのではないか、と。
さすがに大人になると、このような「感情による場の巻き込み」を、こんなにあからさまな形でやる人は少なくなりはするけど、とはいえ、もっと抑制された形であったり(大して興味ないけど話題のものには一応一言物申す、とか、一丁噛みして場に存在を示したい、みたいなメンタリティとか)、場をわきまえた、文化的に洗練された形(「一言物申す」の上品な――時に挑発的な――交換によって円滑なコミュニケーションを図ったり――それによってけん制したりたしなめたり――とか。これは立派な大人って感じがする)へと変化して、人と人とが関係する社交的な空間には、このような形での感情のやり取りは基本的な土台のようなものとして埋め込まれているように思われる。と言うか、人と人との関係の基本というのは、こういう感情と場の未分化にこそあるのではないか、とさえ言えるのかも(このような感情は基本的に闘争的だけど、文化的洗練によってその闘争性に丸みを帯びさせたり力を逃がしたり、あるいは論理性へと昇華させる、とかは可能だ)。人が人に対して(対人関係として)存在するというのは、きっとこういうことが土台となっている。
でも、とはいっても、十分に文化的に洗練された形だとしても、感情による場の巻き込み的なものは、ぼくにはどうしても苦手なのだった。