●15日の日記の付け足しみたいなこと。「風が吹けば桶屋が儲かる」という過程において、「風が吹く」と「桶屋が儲かる」の間には七つのステップがあって、「桶屋が儲かった」ことにかんする「風」の影響は0.8%であるとする。一方、風→桶屋という物語的、イメージ的連鎖には含まれないが、実は、因果関係を全方位的に解析すると、○月△日に雪が降ったということが、桶屋に対して(例えば10%近い)強い影響を与えていたとする。とはいえ、人には後者の解析結果(つながり)をイメージし、実感として受け入れることが難しいとする。この時、物語的には、風と桶屋はつながっているが、雪と桶屋はつながっていない。しかし、確率的に考えれば、風と桶屋のつながりはきわめて薄く、雪と桶屋のつながりこそが濃い。一方では風と桶屋の結びつきが強く、他方では雪と桶屋の結びつきが強い。だが後者は、人間の「意識」からは欠落する。
この時、前者は間違っていて、後者である「事実」は未だ隠されている、という風にみるのは違うと思う。人は前者の世界に住んでおり、同時に、後者の世界のうちに含まれている。両者のハイブリッドが、人間的な世界に起きる様々な出来事を生んでいると考えられる。15日の日記にはここまで書いた。そして、ハイブリッドを生きるがゆえに、人間の意識の側から見れば、世界は穴だらけで、欠落に満ちていることになる。
しかし本当にそれは、「人間の側」からみたからに過ぎないのだろうか。そもそも「世界」そのものの側が既に、多重に重ねあわされたものであり、故になめらかなものではなく、それらの間にある落差や穴や欠落に満ちているのではないか。おそらく、最近の量子論的な宇宙論とか、ポストポスト構造主義とかが考えていのは、そういうことなのではないか。