ベルクソンアインシュタインの論争というのがあるらしく、興味をもった。ただ、ベルクソンが一方的に相対性理論批判の本(『持続と同時性』)を書いただけで、アインシュタインはそれについて何も言っていないみたいだけど。これについてざっくりと分かり易く書いたものはないかと思っていたのだけど、ドゥルーズの『ベルクソンの哲学』の第四章に書かれていた。当然と言えば当然だけど、ドゥルーズの要約力というかまとめ力すげえと思った。
ただ、これはあくまで、「ベルクソンの哲学」からみた「相対論」であって、その限りでは、まあ、そういうことになるのだろうと納得するのだけど、では、「相対論」の側からみた「ベルクソンの哲学」はどうなのだろうかという興味が出てくるのだけど、そういう風に書かれたものはあるのだろうか(ここで重要なのは、「ベルクソンの側」ではなく「ベルクソンの哲学の側」であり、「アインシュタインの側」ではなく「相対論の側」であるということ――実際、アインシュタインは何も言っていないのだし)。
以下の引用は『ベルクソンの哲学』第四章より。
≪論点はどこにあるのか。収縮・膨張・運動の相対性・多様性といった概念は、すべてベルクソンに親しいものである。ベルクソンはそれらの概念を自分のために用いている。持続、つまり時間が本質的に多様であるという考えを、ベルクソンは決して否定しないであろう。しかし、問題はいかなるタイプの多様性かということである。多様性には、実在的・数的・非連続的なな多様性と、潜在的・連続的・質的な多様性という二つのタイプがあるが、ベルクソンがこの二つを対立させたことが想起されよう。ベルクソンの用語では、アインシュタインの時間が第一のカテゴリーに属することは明らかである。アインシュタインが多様性の二つのタイプを混合し、それによってふたたび時間と空間との混乱を生じさせたことをベルクソンは非難するのである。時間は一か多かという問題について論じられているように見えるのは外見にすぎない。真の問題は、≪時間に固有な多様性とは何か≫ということである。ベルクソンが、普遍的で非人格的な唯一の時間の存在を主張する仕方のなかに、この問題ははっきりと見えている。≫
≪一方では、持続は質的に異なる諸要素に分解され、他方では、これらの諸要素または諸部分は、実際には、分割が効果的になされる場合にのみ存在する。(もしもわれわれの意識が、≪どこかで分割をやめるならば、そこでまた分割可能性もとまることになる。≫)もしもわれわれが、分割がなされない時点、つまり潜在的なもののなかに身を置くならば、唯一の時間しか存在しないことは明白である。≫
≪われわれがいくつかの時間の存在を認めるとき、われわれは流れAと流れBを考えるだけでは満足せず、あるいは、Aの主体がBについて作るイメージ(亀によって体験されうるような亀の歩みを概念化または想像するアキレス)についても満足しない。二つの時間の存在を措定するためには、われわれは異質のファクターを導入しなくてはならない。それは、Bがそのように生きることができないのを知りながら、AがBについて作るイメージである。それは全く≪象徴的≫なファクターであり、つまり体験されたものに対立し、体験されたものを除外するファクターである。そしてのファクターによってのみ、いわゆる第二の時間が実在化される。≫
≪同じ潜在的な全体に必然的に参加している(制限された多元性)無限に多くの現実的な流れはあるが(一般化された多元性)、時間はただひとつしかない(一元性)、ベルクソンは、現実的な流れのあいだにある質的な差異という考えを決して捨てないし、それらの流れを包括し、それらにおいて現実化されている潜在性のなかの弛緩か緊張かの差異という考えも捨てない。しかしベルクソンは、これらの二つの確実な考え方が相互に排除し合うものではなく、むしろただひとつの時間を含むものであると考える。要するに、潜在的な多様性は単に唯一の時間を含むだけではなく、潜在的多様性としての持続が、この唯一で同じ時間なのである。≫