●進化論は、人間の人間自身による(というか、生物の生物自身による)自己言及で、物理学は、宇宙の宇宙自身による自己言及であるとも言える。なぜ宇宙があり、なぜ生物が生まれたのかということも驚くべきことだけど、それよりむしろ、なぜ、この宇宙に「自己言及」が生まれたのか、ということの方がより驚くべきことなのではないかと思う。宇宙があるということと、宇宙の内部に宇宙とは何かを知ろうとする者があるということは、全然違うことだろう。キリンが生きるためには首が長いことが必要(というか「有利」)であるかもしれないが、なぜ自分の首が長いのかを知る必要はない。意識が発生することによって、ある環境のなかで生き延びる確率が高くなるということはあるかもしれないが、しかし、意識が自分自身(意識)を意識するということが、生存においてとの程度有利であろうか。あるいは、宇宙に、宇宙自身の来歴を知る必要などあるのだろうか。それなのに、なぜ、この宇宙に科学が、進化論や物理学が生まれたのか。これはとんでもなく不思議なことであるように思えてくる。
●『2』(野粼まど)を読みながら上のようなことを考えていたのだけど、それは必ずしもこの小説に書かれていることと関係があるわけではない(ないわけでも、多分ない)。『2』は、『小説家のつくり方』や『パーフェクトフレンド』とほぼ同じ話で、ただ、順番にスケールがだんだんと大きくなってゆく。このスケールの拡大は、例えば「完璧な天才」というキャラクターが出てきたとして、それに対し『「完璧な天才」よりもっとすごい天才』というキャラもあり得るし、≪『「完璧な天才」よりもっとすごい天才』の裏をかく天才≫もあり得るという風に、後から付け加えていけばいくらで拡張してゆくことが出来る(どんでん返しはいくらでも可能)という類のもののように感じられた。そのような意味で「2」というタイトルは、どんなに完全な「1(全体)」でも、常にそれに新たな「1」をプラスしてゆくことができるということかもしれない。
●しかし、ごく普通に読解するなら「2」とは「創作物(創作者)」と「観客」という「1+1」のことで、この作家においてそれはそのまま「突然変異(ランダム)」と「自然選択(制約)」のペアと重ねられる。作品(突然変異)+観客(自然選択)によって「正解」が得られる、というのがこの作家の「作品観」だろう。
作中でドーキンスの「いたちプログラム」が言及される。「METHINKS IT IS LIKE A WEASEL」という「ハムレット」のセリフの一部部分を、ランダムにアルファベットを打ち出すプログラムによって生成しようとする。だが普通にこれをやると何京年かかっても実現出来ない計算になるらしい。しかし「正解と一致した部分は固定する」という条件をそこに付け加えるだけで、ほんの一瞬で「正解」を打ち出す結果が得られる、と。ここでは、ランダムに文字を打ち出すことが「突然変異」に相当し、正解とかすった部分は固定されるという条件が「自然選択(適者生存)」に相当する、という風に進化論と重ねられる。つまりこれは、一見、突然変異だけでは説明できないように思える(ランダムな文字の打ち出しだけでは何京年もかかる)進化による生物の複雑な形態が、自然選択を想定すれば実現可能であることを説明する(「正解」と重なった部分が固定されれば一瞬で実現される)ためのものだ。ランダムな変異と環境による制約があれば「神の意志」は必要なくなる、ということ。
前にも書いたが、この作家の作品のユニークなところは、作品と観客との関係が、ほとんど常に、進化論的な意味での突然変異と自然選択とに重ねあわされていることだ。ただ、ここに一つの倒錯が生まれる。作中でも指摘されているのだけど、突然変異は、適者生存(正解)を目的としているわけではない。ランダムな動きそのものには目的がなく、つまり「正解」を求めて試行錯誤しているわけではないが、環境がそれを条件づけることで、結果として正解(遺伝子の利得)が創造される。そもそも、目的=神の意志を「無し」にするためにこのようなことが考えられた。作中でわざわざこのことを指摘しているわけだから、当然作者はそれを意識している。にもかかわらず、この作家の小説において「作品(変異)」はいつも、ひたすら「たった一つの正解=目的(それはたった一人の特定の観客---最適な環境---に向けられている)」を求めてつくられるものである(おそらく、多くの「作品をつくる人」あるいは「作品を好む人」は、この部分に大きな抵抗を感じるだろう、しかし「そこ」がこの作家のユニークなところだと思う)。これは「神の意志」のようなものとしての「目的」とは違うけど、ランダムな「変異」と環境による「制約」が「最適なマッチング」をするような出会いが「あらかじめ」人為的に整えられる、というような異様なことだ。
おそらく作者はこの倒錯を意識している。そして、この倒錯を生むものが「自己言及」なのではないかと考えているのではないか。宇宙の自己言及である人間が、目的のないところに目的を創り出す。なぜ、そうなるのかというと、作者の考えはたぶん、その方が計算効率がよくなるからだ、というものではないか。
宇宙全体が何かを計算している計算機であるとする。その計算機は、突然変異と自然選択によって計算を行う。つまり、進化によって計算している。ただ、それではあまり計算効率が良くないとする。そこに、宇宙自身の自己言及である人間があらわれ、突然変異と自然選択という(自分がその内部にいる世界の)アルゴリズムを発見し、そして、本来そこには備わっていなかった「目的(神の意志ではなく、「あらかじめ人為的に最適化された変異と制約のマッチング」)」という新たな計算法をそこに付け加えることによって、宇宙の計算はショートカットされ、効率が良くなり、計算速度が上がる。作者が考えている宇宙のビジョンとは、こんな感じのものなのではないだろうか。この作家の作品に出てくる、絵空事のような特別な天才たちは、まさに宇宙の自己言及を体現するような人々ではないかと思った。