●引用。メモ。『ミシェル・セール』(清水高志)、第6章より。ナチュラリズムとアニミズムの関係。
ガリレオは運動する物体の速度が、観察者の位置によって相対的なものであることを明らかにした。「ガリレオの相対性原理」と呼ばれるものである。そこでは観察者たちのパースペクティヴは複数化、相対化されているものの、それらを数学的に結びつけるガリレオ変換を通じて、客観的世界の一貫性そのものは維持されている。
複数の(多なる)パースペクティヴが、同一の自然を媒体に結びつくこの形態は、まさにデスコーラがナチュラリズムと呼んだものを表わしている。西洋近代の自然観であるナチュラリズムは、ガリレオの発見と日付を同じくして誕生する。パースペクティヴの複数性は、アニミズムにおいてすでに見られたが、ガリレオ変換によってそれらが相互に結びつくことによって、自然は「同一な」ものになるのだ。≫
≪(…)アニミズムにおいて「同一なもの」として想定される魂ないしは精神は、彼(セール)の考えでは、ギリシア人のもとでは数学と結びつけられて考えられていた。その後ガリレオとともに、異なるパースベティヴを持ったもろもろの物体(Corps:身体)が、この唯一の数学的精神に結びつけられるようになったが、これはある意味で、アニミズムにおける多様なものとしての身体の回復でもある。
ナチュラリズムや、いわゆる経験科学が誕生する決定的な契機にあっても、なおもそこにはアニミズム的な世界観の要素が忍び込んでおり、そのハイブリッド的状態から、ナチュラリズムもまた、生まれてくるのである。≫
●あるいは、第一章より引用、メモ。暴力に関して。
≪非暴力の主張そのものも、結局は姿を変えた暴力でありうる。大切なのは、場所をずらすこと、異なる場所へ移動することである。「場所をつくり、発見する」という実践の倫理が、こうした状況に対する、唯一の、そして恒常的な解決なのだ。≫
≪口論の形態は安定しており、永続的である。こうした騒音の中には、何もない。先の見えない遠出は、オデュッセウスに知を開示し、ヘブライの民には歴史を、アエネイアスにはローマを開示した。討論はつねに先が見えている。そこではいつも同じ喝采が聞かれる。≫(セール「生成」)
≪場所をずらし、遠出をすること。これこそが、野放図な暴力に処するただ一つの方法である。≫