双葉社からマンガの本が送られてきた。なぜぼくのところに…、と思ったら、巻末に作者と保坂さんとの対談が載っていて、保坂さんが編集者にぼくのところにも送るように言ったらしい。『やれたかも委員会』(吉田貴司)。とてもおもしろかった。
委員会を訪れた人々が、過去にあった「やれたかも」体験を語り、それに対して三人の委員が「やれた」か「やれたとは言えない」か判定を下す。ただそれだけの話なのだけど。ここで重要なのは、「やれるかも」ではなく「やれたかも」であるという点で、未来に向けた可能性の話ではなく、やれたかもしれないけど結局やらなかったという結論が既に確定されている。さらに、「やれたかも」体験はかなり過去の話であり、体験を語っている時点で、強く後悔しているとか、悶々としているということはなく、人々は出来事に対して冷静に距離をとって語っている。しかし、完全にネタとして処理できているのでもなく、未だに消化しきれない何かとして語っている。強い後悔を感じているのでも、悶々としているのでもないが、しかし、何年も前の結果の確定した出来事にもかかわらず、それについて他者目線の客観的意見を求めずにはいられない程度には、ずっと、くすぶるように気になっている。
「やれたかも委員会」は、訪れた人の体験に対して第三者として冷静な判定を下す。しかし、実はそれによって事態は何一つ明確にはならない。委員は、二人の男性と一人の女性からなり、二人の男性は「やれた」という肯定的な判定をし、一人の女性は「やれたとは言えない」という懐疑的な判定をし、さらに、具体的な懐疑点を示す。結局、やれたのかもしれないし、やれなかったのかもしれないという点はかわらない。体験は依然として「やれたかも」に留まり、もやもやは解消されない。しかし、何も変わらないということではない。体験者は、二人の男性からの肯定的判断と、一人の女性からの具体的な懐疑点を得る。さらに、ここで体験者は、もやもやとして胸にくすぶりつづけている体験を、他者に向かって語り直すという経験をする。
それによって「やれたかも」体験の「やれたかも」性はむしろ強化されているように思われる。肯定的な後押しと、具体的な懐疑は、実はやれたんじゃないか感と、結局やれなかったのではないか感の、両者を等しく増進させる。どちらとも言えないままに、その「どちらとも言えなさ性」の精度が上がる。「やれたかも」体験とは、あと一歩勇気をもってアクションを起こせばやれたかもしれなかったのに、それができなかったために「やれなかった」体験で、そこでアクションを起こさなかった時点で、永遠に「やれた」にも「やれなかった」にも収束しない。逆にいえば、アクションを起こしていればどちらかの収束してしまい、あと一押しでやれたかもしれないのにやれなかったという中間状態は維持されない。
ここで、しないで後悔するより、して後悔するほうがマシ、という肯定的態度を良しとして割り切ることはできない。そこにあるのは、白か黒か、成功か失敗かしかない世界だ。逆に、危険なものには近づかないというのもおもしろくない。そこには「やれたかも」の味わい(生臭さ)がない。とはいえ、いつまでも「やれたかも」の世界でうじうじしているのは不毛である(とはいえ、その不毛はきっと避けられないものなのだが…)。それは既に過去の話だが、かといって割り切れているわけでもないという味わい。
「やれたかも」は、過去に戻ってもう一度その場面をやり直したいということとも違うように思う。「やれたかも」は後悔であると同時に希望であり、過去の「やれたかも(やれたのか、やれなかったのか、の分からなさ)」は、未来の不確定性(不確実さ)の表現でもある。
しないで後悔するより、して後悔した方がマシ、という言葉には、「しないことで後悔しない」という可能性が抜けている。「しないことで後悔しなかった」ということはポジティブに証明できない。「することによって後悔してしまった(アクションを起こしてもやれなかった)」という事実によってネガティブに証明されるだけだ。つまり「しない」を選択すると、その正否は永遠に分からない(アクションを起こさなかったために変な空気にならなかった、のか、アクションを起こしても変な空気にならなかった、のか)。対して、「することで後悔しなかった」ということの正否は、「する」ことによって証明できる。「やれたかも」体験の味わいのなかには、この、「することで後悔しなかった」と「しないことで後悔しなかった」との間にある非対称性が表現されていると思う。