●『ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル』(ブラッド・バード)をDVDで。このシリーズを観るのははじめて。さすがに130分間まったく飽きることとなく、あっと言う間に過ぎた。とはいえ、楽しい時間はあっと言う間に過ぎるということとが言えても、「あっと言う間に過ぎたから楽しい時間だった」とは必ずしも言えるわけではないということを考えさせられもする。観終わった後に、「で、これっていったい面白かったのだろうか」という思いが残った。最初の方の場面、ブダペストで諜報員が殺されて、その後、モスクワでトム・クルーズが脱獄するあたりまでは(要するにタイトルが出る前までだ)、これから何かが起こりそうな予感に満ちていて、けっこう胸が高鳴る感じで興奮しつつ観ていた。だがその後は、たたみかけるような展開に引っ張られはしたし、それぞれのアクションやアイディアの質も高くて決して退屈することなく最後まで行ったことは確かなのだが、「本当に面白いと感じていたのか」と自分に問いかけてみると、ちょっとあやしい。「胸が高鳴る感じ」で観ていた序盤は、まだ物語は動き出していない場面で、今、目の前で起きている出来事がこれから展開してゆく物語のなかでどういう意味を持っているのかわからないままで事の推移を追って行く感じだったのが、ある程度設定や流れがみえてしまうと、その流れの方便のなかに、様々なアクションや見せ場やアイディアが「置かれてゆく」感じにみえてしまって、突っ切って、突っ走ってゆくという感じではないように思えた。
それは、この映画がしっかり作られているということでもある。これだけ、視覚的な見せ場やアクションを途切れることなく詰め込みつつも、アメリカ映画の王道パターンのドラマや人物造形をそれなりにきちんと埋め込んでいる。たとえばスピルバーグとかだったら、それが面白いと思えば、アクションや見せ場のおもしろさ、あるいはトム・クルーズという俳優の異様な存在感などの方に、ある意味だらしなく(柔軟に、というべきか)流れてゆくような傾向があって、結果としてそれが映画を過激なものにするし疾走させることがあると思う(そのような意味でスピルバーグはやはりアーティストなんだと思う)。でもここでは、見せ場は見せ場、アクションはアクション、ドラマはドラマとして、それぞれの自分の分とバランスをわきまえていて、派手な見せ場を追求するあまりドラマが歪んでしまう、とか、そういうようなことがない。それぞれのアクションやアイディアがしかるべき落ち着き先から逸脱することがない感じ。それは、王道パターンが王道パターンとしてバランスよく収まるところに収まっているという感じでもある。
●アメリカ映画の王道パターンであると同時に、日本のアニメーションとの類似性も強く感じられた。世界的な大状況があり、そこに深く関わる巨大組織があり、その組織に属しながらも自律を保ってもいるチームがあり、そのチーム内の連携とそれぞれの事情による軋轢もある。大状況のなかの敵味方の攻防があるだけでなく、組織とチームとの齟齬や行き違いがあり、チーム内の軋轢もある。そのような困難をチームのメンバーとともに乗り越えて行くチームリーダーのキャラがある。これは、押井守から神山健治まで、パトレイバーから攻殻機動隊まで、が、繰り返し取り上げてきた主題でもあろう。それにドバイの超高層ホテルでのトム・クルーズのアクションはまるで実写版宮崎駿みたいだともいえる。
●実際、この作品は表現上のおもしろさを考えるならばアニメとしてつくられた方がよりおもしろくなるのではないかとも思われた。ドバイのホテルの「高さ」の表現や、それにつづく、砂嵐のなかでの執拗な追いかけっこ、クレムリンに侵入する時の光学的な目くらまし装置、随所に登場するハッキングの表現など、日本のアニメの技術があればもっとすごいものを見せてもらえそうな気もする。
それに、大状況-組織-チーム-個人という複数の層の事情の同時平行的な絡み合いと、その絡み合いのなかで決断し行動するリーダーという(敵対味方や、社会対個、組織対個という単純な図式ではない)物語の進行を導く技術も、日本のアニメの方が高いように思われる。『ミッション…』では、人物造形の部分で「パートナーの死」という出来事を安易に、そして絶対化して使い過ぎていると思う。それに、テロリストの「思想」があまりに薄っぺら(物語としても紋切り型)すぎないだろうか。
●ただ、アニメでは決して出せないのが、主演のトム・クルーズの異様な存在感だろう。なんというのか、禁欲的であることの諸矛盾が力として内向きに屈折し、内部で何重にも絡み合って膨れ上がり、今にも体表を破って炸裂しそうなのに、それがぎりぎりかろうじて「禁欲」という外面を保っていて、同時にその異様さがどこかで途方もない「無垢(あるいは空無)」と通じてしまっている、とでもいうような。奇形的ともいえるマッチョな肉体(しかし服を着ると意外なくらいにしゅっとした感じにもなる)と、どう老けてよいのかわからず戸惑っているような、端正なとっちゃん坊やみたいな顔と、白痴的なほどに濁りのない澄んだ眼差し(そして多くの人が指摘するゆるい口元)のアンバランスさ。
●だから、総合的には「おもしろかった」と言っていいのかもしれない。ただ、「つかみ」の部分で「おおっ」と思った感じからすると竜頭蛇尾というか、いまひとつ突き詰め方が物足りないように(いや、そうではなくて、すごく突き詰めてはいるけど「走って」いないという感じか…)感じてしまうことは否定できない。
●世界的な規模の大状況があり、その大状況に介入し得る巨大な国家的組織があり、その組織に属しながらも必ずしも組織に従属せず、依存もせず、組織そのもの(組織によって決定された意志や命令系統が強いる命令)より、もちろん自分の利害よりも(だからそれぞれに個的な葛藤があることも示されなければならない)、自らのうちにあると信じられている組織-国家の理念(正義)を優先させる(組織から自律することで組織の理念を体現しているような)自律的な個によって編成された自律的なチームがあり、それが活躍する。彼らは大状況そのものを変えることはできないが、ぎりぎりの均衡として成り立つ大状況が崩れて破壊がやってくることを、命がけで阻止する。
これはおそらく、アメリカ映画が繰り返し描いてきた理想的な個の物語だと思う。そのような意味でアメリカの神話のような話だろう。しかし実際、現在ではこのような物語を成立させるのが困難になっているのではないか。さらに、観客も、このような物語を必ずしも好むわけではなくなっているのではないか。もっと分かりやすく敵と味方がいてドキドキしスカッとする派手なアクションがあるとか、すさんだ気持ちをいやしてくれるファンタジーとかが好まれるのではないか。あるいはもっと単純に小さな「わたし」を肯定してくれる話とか。
それでもなお、アメリカ映画が黄金パターンを踏襲し、国家から自律することで国家の理念を体現する個としてのヒーロー(まさにゴースト・プロトコルとしてのヒーロー)の物語を成立させようとすれば、そのチームリーダーを表象できるのは、今ではトム・クルーズくらいしかいないのかもしれない。それは、トム・クルーズの異様に奇形的な存在感こそがかろうじて、アメリカの理想自我(の支え)となり得るということなのだろうか。もはや成立が困難な古い物語をトム・クルーズの歪んだ存在感が必至に支えている姿が感動的だとはいえる。
●たとえば攻殻機動隊とかだと、理念を体現する理想自我的なチームリーダーは必要なくて、代わりに草薙素子のような女神がリーダーとなる(リーダーはチームを束ね機能させるための対象であり、「わたし」は自律したリーダーたるべき「理念を体現した自我」を背負い込む必要がない)。だから、チームの機能そのものが主題化されるという感じが強くなる(素子、バトー、長官など、複数のリーダーが役割を分担する)。でも、『東のエデン』では理想自我をつくりだそうとして失敗している感じ。トム・クルーズのようなキャラはそう簡単にはつくれない(というか、それはアメリカの症候で、それをつくる必要があるのかというところが疑問だ)。
●宮崎駿は『未来少年コナン』でそれをちゃっかりつくりだしちゃっている気もするけど。