2019-11-22

●完全には同意できないが、否定もしきれない、というようなものに、人は惹かれるのではないかと思う。何かに魅惑される時にはいつも、「ちょっとこれはどうなのか」という疑問や違和感がつきまとう。この違和感は常に意識される必要がある。「ヤバい」という表現は、この感じうまくあらわしている。これを肯定してしまうのはヤバいかもしれないのだが、これに惹かれてしまう自分のこのヤバい感情の動きを否定しきれない、というような。

(ここで、「完全には同意できない」は程度の問題であり、「あまりにも同意できない」場合は、それに魅惑されることはなく、たんに「引いてしまう」だけだろう。)

だから何かに魅惑されるということそれ自体が危険なことでもある。あるいは、何かに魅惑されるということ自体が「正しい」と言い切れることではない。あるいは、魅惑されることを「正しさ」によって正当化することはできない。肯定であると同時に否定でもある「ヤバい」という感じを保っていないと、魅惑されたものの否定的な側面に巻き込まれる恐れがある。いや、保っていても巻き込まれる時には巻き込まれる。何かに魅惑される時、その人は「正しさ」を踏み破る危険に触れている。

言いかえれば、「正しさ」を踏み越える危険を冒さなければ「魅惑」はやってこない。それはつまり、世界の「ヤバい側面」に触れられないということではないか。

(これは勿論、正しくなければ---悪をなしさえすれば---よいというような単純なことではない。「侵犯」みたいなことを言っているのではない。)

何かをまるごと受け入れる、ということは、それをまるごと肯定するということではない。肯定的な側面も否定的な側面も含めて、まるごと受け入れるということだ。肯定的なことは肯定的なこととして、否定的なことは否定的なこととして。そして多くの場合、ものごとの肯定的な側面と否定的な側面とは分かちがたく結びついているので、肯定的な部分だけを切り取って受け入れることはできない。何かを受け入れる時(何かに魅惑されていること受け入れる時)は、清濁併せ吞むしかない。

逆に、完全に同意できなければ没入できない(正しくなければ受け入れられない)という感じはよく分からない。というか、完全に同意できなければ没入できない(受け入れられない)という人が何かに没入してしまう(何かを受け入れてしまう)ことの方が、魅惑されるという危険よりも、さらに危険であるように思われる。