●昨日につづいて、もう一度『ブレードランナー 2049』を観た。話はもうわかっているので、一つ一つの場面や細部をじっくり味わうようにして。そして、一度目に観たときよりもさらに好きになった。
この映画もユニークなところに、この映画自身が、自分は決してオリジナルではあり得ない(続編である)ということを自ら積極的に示し、それを肯定しようとしているところがある。
この話は、アイデンティティを奪われるという話でもあり、「アイデンティティを奪われる」ということを承認するという話であると思われる。そして、その承認は、半ば、絶望から諦めへの移行としてあり、そして残りの半分は、その諦めがわずかな希望へとつながっているという形での「承認」といえると思う。映画のなかに「解放」のための「大義のための死」という言葉が出てくるが、すくなくとも主人公のKにとっての「承認(辛うじての肯定・希望)」は、「大義」という言葉からはおおきくズレていると思われる。だからKは、ハリソン・フォードを殺さずに救い出して、娘に会わせようとする。
Kはそのために命を投げ出すことになるが、ハリソン・フォードが娘と会うことは革命軍の大義とは関係ない。ハリソン・フォードが娘と会うことが、(この世界では実現可能性がゼロであると知らされた)「自分が父と会う」ことの代理となりえるから、Kはそれをしたのだろう。それは、自分のための「座」が他人に奪われるということだが、しかし、そもそもはじめからあり得なかった(幻だった)「座」が、たとえ他人のためのものだったとしても「実在した」ということが重要であろう。希望はあるが、それは「わたし」のためのものではない。しかし、「わたしのためのものでない希望」が実在するとすれば、(それが誰のためのものであろうと)それは「わたしの希望」の代理となりえる。いわば「奇跡」のための「かませ犬」として利用されたといえるKが、(幻として持たされた)自分のアイデンティティを奪われることを(まんまと利用されたことを)「承認する」というのは、そういうことであり、決して「大義に殉じる」ことではないと思われる。
(ここで、諦めが絶望ではなく、しかし希望が大義というわけでもないということは重要だと思う。ここでKが、諦め-受容=アイデンティティの放棄に至るのは「大義」のためではないが、そのような諦め-受容こそが「大義」へと結びつく、あるいは育つことはありえるかもしれない。ただ、そうだとしても、ここで重要なのは、「このわたし」の問題が決して「大義」によっては還元されないことの方にあると思う。Kは、「このわたし」問題を「大義」によって解決することを拒んでいるように感じられる。ただし、Kはここで他者に何かを「託す(譲る)」ことに、わずかな希望、あるいは満足を見出しているとはいえると思う。)
「奇跡(オリジナル)」のための---大義のための---かませ犬として利用されるためにKが(Kの魂が)「仮のもの」として存在するのと同じように、この映画自身、決してオリジナルとはなり得ない。四半世紀前の伝説的な映画の名を借りた「続編」であり、『ブレードランナー』というブランドの上、あるいはオーラの上にのった、あらかじめ、決してオリジナルになり得ないまがいものという地位を逃れられない形で存在している。主人公がKであり、そして彼が最後にアイデンティティを奪われることを「承認する」ことにより、この映画自身が、自分のそのようなありようを「承認」しているように思われる。
まがいものの「魂(オリジナルへの希望)」をもたされたKと、量産品で交換可能な内面しかもたないし身体もないホログラフAIのジョイが、他者(レプリカントの娼婦)の身体を借りてでも、互いに触れ合おうとする(性交しようとする)場面の、あるいはこの二人の関係それ自身の、身につまされるようなはかなさのリアリティを前にすると、ハリソン・フォードが口にする「俺には本物が分かる」という台詞の方こそが、なんとも空疎なものに感じられる。
●とはいえ、「製作されたもの」(レプリカント)には魂がないが(レプリカント同士の生殖により)「産まれた」ものには魂があるという、この映画の基本線になっている価値観(二つの差異)が、ぼくにはイマイチ分かりにくいという感じはある。人がつくったものであれば、そこに人と同等の感情や知性があったとしても「魂」はないと考える時、その「魂」とは一体何を指すのかよくわからなくなる。
そのような「魂」にかんする感覚とは別に、レプリカント同士の生殖による新たな個体の発生という出来事は、人工物(AI)が、人間の手を介さずに、自力で自分より優れた人工物(AI)を生み出すという事態が重ねられており、ならば当然、レプリカントたちの人間への反逆はシンギュラリティという事態と重ねられる。人間が、人間と見分けがつかないくらい人に似ている身体をもつレプリカントをつくれるようになるにはまだ時間がかかるだろうが、(身体は持たないが)人間と同等の知性をもつAIであるならば、近いうちに実現可能かもしれない。その時わたしたちは、(奴隷としてのレプリカントと同様な)「奴隷としてのAI」をつくってもよいのだろうか、というけっこう切迫した問いが問われている映画だともいえる。そして「奴隷としてのAI」をつくった場合、(安全装置をもうけたとしても)彼らが自然に「自意識」をもつこともなく、人に対して反乱を起こすこともないということは考えにくいのではないか、ということもこの物語は示している。
レプリカントの反逆という問題は、オリジナルの『ブレードランナー』の時代は別にリアルな問題ではなかったが(それはあくまでも「私たち自身」の比喩だったが)、『ブレードランナー 2049』がつくられる現在において、それはかなりリアルな問題になっていると思われる。この映画を観る人は、人が、「K」のような存在をつくってしまってもよいのかということを噛みしめながら観るべきではないかとも思う。