2020-10-11

●大前粟生「おもろい以外いらんねん」(文藝)。「早稲田文学」の「笑い」特集号に載っていた短篇「バスタオルの映像」が、こういう形(ある意味、まっすぐな青春小説と言える)に発展するとは思ってなかった。とても面白い。

この小説では、視点人物として咲太という---停滞し、思考する---主人公がいて、もう一人、書く人(漫才のネタを書き、小説を書く人)としてユウキくんという人物がいて、この二人が滝場(タッキー)という《カラッポ》な(状況に合わせて自分を消すことが出来る)人物を通して、「笑い」と場や世界との関係について思考しているという構図がある。咲太とユウキくんとは、滝場を軸として対称的な位置にある分身であると言えて、実際、途中で視点が咲太からユウキくんに移動する場面もある。

咲太は、滝場というカラッポな人物の、カラッポになりきれない側面、カラッポであることに抵抗するという側面とも付き合っている人物であり、逆にユウキくんは、滝場のカラッポであることの可能性を積極的に引き出すことが出来る人物という役割をもっている。以下、ユウキくんのセリフ、咲太のセリフ、視点人物である咲太の内省ふたつ。

《「おまえは自分がカラッポなことがこわいねん。それで不安やから笑いを生もうとして、笑いを生めば生むほどカラッポになってくねん。それがお前には気持ちええねん。おまえはおまえの好きでカラッポになってんねやから無理して抵抗すんな。無理して泣いたりすんなや。おもろい以外いらんねん」》

《「泣いてんのは、タッキーのなかのなんかがあふれてまうんやろ。それがタッキーのカラッポさをカラッポじゃなくさせてるんやろ。ユウキくんのいうとったこと、おれは正直よくわかったわ。なんでそれをおれじゃなくてユウキくんがいってんやろってくらいに。おまえはネタをやってるとき、おれのことおれとして見るやん。ネタの言葉を話してるおれといまのおれはちがう存在やろ。というか、おんなじやけどちがうやろ。なんかこう、半分うそを身にまとってるやろネタ中のおれは。おまえ、アジサイのネタは生活からネタのインスピレーションを得てるっていうてたけど、ネタをやることがおまえそのものに影響を与えてしまってるんとちゃうんか。せやからネタ中に涙があふれてきたりするんとちゃうんか。アジサイのネタをすることは、おまえ自身をゆがませてるんとちゃうんか。」》

《滝場は死にたさを、ネタのなかだからいうことができたんだ。つらさを言葉にすることで涙を流して、カラッポじゃなくなっていったんだ。》

《カラッポなままでいろ、おまえは楽になるな、俺もユウキくんも滝場にそんなことをいってるのだった。カラッポじゃなくなったらおまえはおもしろくなくなるやろ、という肝心なことをぼかして。》

●そして、そのカラッポさは、次のような傾向を生む。

《滝場はひとを楽しませるのと同じ口で、ほとんど暴力みたいにクラスメイトや先生をいじっていた。嫌な顔をするひとがいた。注意するひともいた。俺は傍観することが多かった。たまに、「いやいじりすぎやろ」とかいうこともあった。それで笑いが起こった。きつかった。でも笑いが起きてうれしかった。》

《そのなかにはいじるひとといじられるひとがいて、いじられるひとは怒るとか笑うとか、こちらが返せるリアクションをするものだった。それ以外の反応をするひとは俺たちのなかに存在しなかった。悲しむひとや沈黙するひとは他者だった。悲しみや沈黙を俺たちは無視した。俺たちを気持ちよくしなかったから。》