2020-10-12

文藝賞を受賞した「水と礫」(藤原無雨)を読んで、文章がうまいと思った。具体的に言うと、フレーズの作り方と重ね方がうまい、と。フレーズを作り、重ねる巧みさだけで世界(フィクション)を立ち上げられるというか、フレーズによって言葉に根拠と説得力をもたせられるというか。ただ、うまいが故に鼻につく感じのところもなくはないのだけど。小説全体を通して完璧ということではないとしても、随所に才能が垣間見える感じ。そして志の高さを感じる。

(とても凝った構造をもつ作品だけど、おそらく、300枚近いボリュームを支えているのは「語りの構造」というより、フレーズ生成の巧みさの方なのだと思われる。というか、フレーズによってその都度生まれる彩りや説得力によってこの「構造」が支えられているのだと思う。)

●おそらく、この小説が示している世界と、(昨日の日記で触れた)「おもろい以外いらんねん」(大前粟生)の示している世界とが両立することは難しいように思われる(その世界の成立のためにまったく異なる「地」が要求される、と思われる)。

たとえば「水と礫」では父から息子へ受け継がれる伝統的な家族観を世界の基盤としていて---男性にだけ「葉巻由来のニックネーム」が継承されるなど---まず、そのような世界をある程度前提として受け入れられなければ、作品世界に入っていくことはむつかしいだろう。対して「おもろい以外いらんねん」では、そのような前提はもう成立しないであろう状況=現在こそが前提となっていると感じる。

ただし、そのことが直ちに「水と礫」の示す世界が古いものだということを意味すのではない。仮に、そのような世界観を受け入れたとするならば、このような(現状とは異なる)生の形を考えることが可能になるのだということを示し、「現状=現在」を相対化し、揺さぶり、「現状=現在」のあり様について吟味することを可能にさせるという意味で、「水と礫」には現在性があると言える。現状の反映だけが現在性ではない。

●この現実世界のなかで、この二つの小説は、「文藝」という同じ雑誌に、前後で並んで載っているし、二つの小説をつづけて読んで、面白いと思うこともできる。つまり「この現実世界」は、両立が困難であるような複数の「地(前提)」を現に両立させてしまっている、と言える。