2019-10-20

●『1R134秒』(町屋良平)。難しい小説だと思った。つかみどころのない文章で、どう読んだらよいのだろうと探り探り読み進めるのだけど、とうとう最後まで、「こんな感じかなあ」というような読み方の呼吸を掴めないままだった。

それで、これはもう一度最初から読み直そうと思って、そして、今度は気になった部分を書き写しながら読んでみようと思った。結果として、書き出しから最初の14ページ目くらいまでは、八割くらいを書き写すことになった。でも、そのおかげで、なんとか「入り口」はくぐれた感じはあった。

(一回目を読み終えてすぐに、二回目を読み出したのにもかかわらず、二回目を読みながら、お話の内容をほぼ憶えていないということに、我ながら驚いた。それくらい「読み方」をつかめてなかったのだろう。)

その後も、気になったりひっかかったりした部分を書き写しながら読みすすめていくと、しだいに「読める」感じにはなってきて、中盤以降、書き写す部分は徐々に減っていった。しかしまた、ラストの8ページは、ほぼ全部書き写すことになった。

で、これはちょっとすごい小説なのではないかと思った。お話そのものはありふれていると言ってもいいと思うのだけど、こんなことが書かれている小説は他にあまりないのではないか。その「こんなこと」が具体的に(あるいは比喩的にでも)どんなことなのか、現時点でうまくつかめてはいないのだけど。

●たとえば次のような部分。

主人公は、デビュー戦で勝利した後、二敗一分けという成績で臨んだ四戦目に負けたばかりのプロボクサー。引用に出てくる主人公の友人は映画をつくっていて、いつもiPhoneで主人公を撮影している(「青志くん」とは主人公が四戦目に負けた相手)。ウメキチは、現役のボクサーでありながら、主人公の次の試合に限ってトレーナーを買って出ている男。

(この二つの引用部分は、身体---の動き---のなかから、記憶と、記憶の合成によって生まれる新たな何か、が、ふっと浮き上がってくる瞬間が、とても高い精度で描かれていると思う。)

 

「映像を撮っているとき、撮った映像をみているとき、その両者をながれる時間、その関係性においてだけ、おもいだせることがある。おれもおれをおもいだせてない。なんで映画を撮りはじめたのか? でも、ときどき、いつでもきもちが澄みわたれば、おもいだせるんだぜって自信はあるんだ。なあ、ちょっとシャドウをしてくんない?

ぼくは、いわれたとおりにした。帰路もトンネルにさしかかる。赤い街灯に照らされて、「みせる」用のわかりやすいシャドウをする。こんなシャドウをしていてはだめだ。アップにも練習にもならない。三分保たない。だけど、いつも気づいたらこんなシャドウをしている。いつしか相手がいた。青志くんだった。おもいだした。こないだの試合。一ラウンド。いまなら動ける。いまなら勝てる。シャドウというよりいわくいいがたい、ボクシングの動きになった。それはウメキチに教わった技術だ。ぼくは青志くんを追い詰めた。

さいごのパンチは打てなかった。だって、現実には勝てていない。虚妄のなかで再戦して、勝ってしまえたところで、なんになる? ぼくははたと動き止めた。友だちもなにもいわず、iPhoneをしまい、「そろそろおれもなんか作品にまとめよっかな」といった。ぼくは心がじくじく痛い。昂っただけムダだ。人生をいき急いで、墜落したい、そんな欲動がものすごくムダだ。幻想にすぎない、つきあってられない。みんな夢をみる。他人のボクシング像に、幻想に、つきあっていられないんだよ。

 

ある日、シャドウをしているとめずらしくウメキチがそばにいて、いつもは声をかけられることもないのだが、「おまえ、ショートアッパー打ちたいの?」といわれた。

ボンヤリ動いていて気がついていなかったが、そのことばでぼくははたと心至った。ぼくは自分が青志くんに倒されたパンチをたびたび追い求めていた。ビデオでみたあわれな自分の姿がよみがえる。ぼくのほうからくっついた状態で、限りなく細く斜めの軸でかちあげるアッパー。右拳を頬下につけた状態から、腰の回転だけで垂直にちかい斜線を結ぶ、回転力と相手の体重が乗算される、パワーの丁度噛み合った地点にぼくの顎があった。利いた。マウスピースがなかったら、脳がこわれていたかもしれない。そういえば、バイトをやめてからだいぶ頭痛は治まった。

「右拳で相手の右の顔の輪郭を擦るような感覚か?

ウメキチのことばは、疑問形ながらぼくのからだにちょっとしたワンダーをもたらした。おもわず許可もえないまま、ウメキチの顔面にアッパーを、ゆっくり入れる。

「ウン。右の軌道がカーブして、肩を、そうだなあ、噛ます? 肩を舐めるようなつもりで? 自分の舌で。べろっと」

もう一回。たしかに意識のうえでは弧をえがく軌道を意識したほうが、現実にはまっすぐの線が結べる。肩を舐める(つもり)

「うーん。肩はやりすぎかな?

ウメキチ自身も、自分でアッパーを動く。鏡にむかって。二三度打ったあと、ぼくにむかいゆっくりアッパーをくりだした。さっきぼくがしたように、わざと相手の顔面右側にずらす。

ぼくは戦慄した。それは青志くんにもらったアッパーを想起させた。似ているという感覚ではない。まったく同じものだ。どばっとなんかの脳内物質がでた。倒されたときに吹き飛ばされた記憶が、試合後三週を経ていま、まさに戻った。あの無念。無常。

 

●そして、記憶とその想起の反復は、必然的な「たら・れば」的な並行世界をたちあげる。

 

ぼくはしっている。つぎの相手がきまるまで、この試合の日の記憶と、いまビデオをみていた真夜中の記憶の中間で生きる。それ以外の人生はない。減量よりなにより、実際これがいちばんきつい。試合の記憶とビデオの自分の動きとの符合と差異、ありえたかもしれないKO勝ち、ありえたかもしれない判定勝ち、ありえたかもしれない引き分け、ありえたかもしれない判定負けを、パラレルに生きるほかないのだ。それでも日々は待っている。バイトと練習の日々が、待っている。

 

 

夜の窓をあける。木が爆発せん勢いで入ってき、緑のにおいが部屋中に溢れた。記憶が重なってはほどける。部屋にくらすぼく。ぼくはぼくをかえりみる。ライセンスをとった。木にみせた。木はさわさわよろこんだ。星がよろこんだ。リゲルとペテルギウスのあいだの距離が祝福。冬だった! さむくてすぐ閉めた。初戦KO勝ち。いけるぞ!

でも木はライセンスのときほどよろこばなかった。だって、いつか敗ける日がくるんだし……。そのような木にはぼくの記憶が宿っていて、デビュー戦のころのぼくの明日へのつよい希望が、ライセンスをとったころのぼくの濃密なよろこびの感情が、記録されていた。当時の記憶と、生長しつづけながらいつもそこにいた木とのあいだで、友情が結ばれていた。木はその葉のかたち、幹のひび割れ、皮の剥がれ、枝の色あい、他の生き物との共生、そのありかたによって、ぼくがいまのぼくでないぼくを生きている可能性を、語っていた。この部屋でボクサーにならなかったぼくも暮らしている、初戦に敗けてボクサーを止めちゃったぼくも暮らしている、勝ちつづけて或いは引っ越してここにいないぼくすらも暮らしている、そのような木とぼくとこの部屋の間で、あらゆる並行世界がこのくるしい情緒のなかで、シャキッとした冷徹な想像力において、たしかに在るものとして、ぼくにはわかった。パラレルなぼくに想像力を託して、現実のぼくとはぐれたぼくに思考を任せた。そもそもライセンスをとらずボクサーですらなかったぼくは、ボクサーであるいまのぼくの現状を憂えている。勝っても敗けても次が弱い。勝ちつづけないことには明日が薄い。そうしてべつの人生を生きることも可能だったぼくの言外に思いを馳せることで、なんとか過去を、いまの自分の感情に接続することができ、それなしでは目の前の状況すらおぼつかないでいる。

 

●反復され増殖する記憶と想起、現実と並立的にある可能的に世界。それと同時に、まさに一つのものとして到来する現実がある。

(小説のラストの部分はここには引用しないけど。)

 

それにしても今回は食いすぎている。しかしトレーニングを積めている成果か、精神的な安定の副産物か、一定のリズムで体重は落ちていた。あとはウメキチとの練習が実を結ぶかどうかだ。ギアなしでのスパーではだいぶ手応えを得ていたが、出稽古ではボコボコにされた。ちょっとでも距離が狂うと修正できない。サウスポーとのミドルレンジ(なぜサウスポーといまさらスパーをせねばならないのか)では話にならなかった。開き直ってガチャガチャにくっついてしまい、むしろ優勢にすすめられる日もあった。言語化できる地獄に地獄はない。少しずつカロリーを落としながら集中を切らせないウメキチとの日々は、確実に精神を削いだ。そのようにしてひととおりの練習を終え、試合前にひといきの安堵と偽りの達成感がおとずれる。なんとか怪我も謎の不調もなく練習を終えられた。ウメキチは大仰な労いや試合に向けた意気込み等をいわなかったし、いわせなかった。わかっていた。いままでやってきたことのすべてとリングの上で再会する。すごした時間をただしくふり返られる数分間を、穏やかな心でむかえたい。勝つシーンの想像だけが上手くできるほど呑気に勝ててきたボクサーではお互いないのだから。