2019-08-30

●引用、メモ。『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明)、第二章「科学とは何か」より。このあたり、ラトゥールがもっとも誤解されがちなところだろうと思う。《本章では、科学的実践を「自然」にも「社会」にも還元せずに捉える試みが(…)検討される。》

●短いネットワーク/長いネットワーク、より柔らかい事実/より固い事実

《「一日一個のりんごは医者を遠ざける」と母親は言いながら赤いりんごを息子に手渡した。息子は自信に満ちた調子でこう答えた。「ママ、国立衛生研究所の三つの研究では、全世代にわたる四五八人のアメリカ人の事例において、医者に来てもらう回数に有意な減少はないことが示された。だから、このりんごは食べないよ。」》

《一見すると、この会話は母親の非科学的発想と息子の科学的発想のズレを示しているように思える。だが、ラトゥールはこの二つの発言が異なる思考や精神によって生じているとは考えない。この会話をちぐはぐなものにしているのは、思考方法の違いではなく、いかなる要素がいかに結びつけられているかという関係性の違いである。》

《ラトゥールは母親の発言を「より柔らかい事実」、息子の発言を「より固い事実」と呼ぶ。前者において、発言は多数の人々によって歪曲されながら伝わるがそれは問題にされず(「医者を遠ざける」の含意は様々に異なりうるが、その差異は気にされない)、誰が最初の発言者かも確定されないまま伝わっていく(大半の諺の起源は不明である)。後者において、発言は歪曲されることなく伝わり、もとの発言者が確定され(国立衛生研究所)、過去の主張(既存の研究結果)と比較され、両者の差異は統一された基準によって測定される。》

《「より固い事実」はより多くのアクターを動員する。この例では、国立衛生研究所の研究に従事した人々、事例として選ばれた四五八人のアメリカ人、彼らが摂取した膨大な食材とそのデータ、彼らを診察する医者たちといった、人間に限定されない膨大なアクターを緊密に結びつけ、データの取得や整理において諸要素ができるだけ同じ形の関係を結ぶように隊列が整えられることによって、「有意な減少はない」という一つの歪曲されない事実が生み出される。》

《科学的知識は、より多数のアクターをより緊密により近似した形で結びつける、より長いネットワークを指向する運動によって支えられている。一方、母親の発言は長いネットワークを志向しない、相対的により短いネットワークによって支えられている。》

《だから、もし母親が息子の主張を正面から否定しようとすれば、以下のような膨大な努力が必要となる。》

《彼女はまず国立衛生研究所を訪問し、三つの研究の代表者に面会を求め、データの適切な取得と分析がなされているのかを詰問する。だが、研究者たちの弁解は専門用語だらけで彼女に判別できない。そこで断念しなければ、彼女は大学に入り直して医学と化学と栄養学と統計学を学び、自ら研究者としてキャリアを歩みながら調査計画をたて(…)だが、彼女の主張は同じ分野の専門家によって批判され、いくつかの検査実験に基づいて「一日一個のりんご」が健康に良い効果をもたらすという証拠はなく、彼女の主張は「疑似科学」だという主張が広まる。反論に対する再反論を用意するために(…)。》

《科学と非科学の区別を自明視する人々にとって、「より固い/柔らかい事実」や「長い/短いネットワーク」というラトゥールの用語法は理解しにくいものだろう。両者を連続的に捉えているのか非連続的に捉えているのかはっきりしないからだ。だが、実際にはその両方である。原理的には連続的だが、実践を通じて非連続性が生みだされうる。》

《個々の存在者はそれ自体において別の何かに還元されることはないが、他の存在者と関係を結ぶなかで暫定的に別の何かへの還元が可能になる。(…)言明の妥当性はネットワークの効果であり、人間もまたネットワークに内在している。外在的に見える知識を産出するためには、上記の例による科学者となった母親のように、無数の媒介項と関係を結びながら次第に仲介項を増やしていく長大なプロセスが必要になるのである。》

●アマゾンの森林に関する調査研究(森林がサヴァンナに向けて前進しているのか、サヴァンナが前進しているのか、の調査)、についてのラトゥールの調査

(…)ラトゥールは何をしようとしているのだろうか。それはまず、世界と対応する言明こそが真であるという対応説的発想が科学者の具体的な実践に対していかに的外れかを示すことである。》

《アマゾンに赴いた科学者達が行っていたのは、世界を虚心坦懐に観察してそれと一致する言葉を探すことではない。彼らの活動を通じて、①土壌は、②ペドフィル等によって区画化された幾何学的大地→③土壌比較器に納められた土壌の配列→④図表(土壌の断面図)→⑤報告書の文章という一連の変換をうける。同時に、この変換は常に逆方向にもなされるように維持される。報告書の文章は、これらの変換の跡を逆にたどってもとの土壌へ戻りうるものでなければならず、これらの結びつきをどこかで---ペドフィルの糸がもつれてカウンターが誤作動したり、比較器のボール紙が破れて土塊が混じったりして---断たれれば、その妥当性は損なわれる。》

《土壌から報告書に至る各段階は後続する段階によって示される事物であり、先行する段階を示す記号となっている。言語から世界へ指示が一方的に与えられるのではなく、諸アクター間を指示が循環しているのだ。》

《このとき、各アクターは固有の形式(形相)と物質性(質量)を持つが、それらの性質は常に他のアクターとの関係に規定される。例えば、土壌比較器の配列(③)は、ボール紙や木製の枠といったその物質性において区画化された大地(②)の形式を受け取り、それによって土塊の升目状の配列という自らに固有の形式を実現する。その形式は、さらに方眼紙と鉛筆の線からなる物質性をもった図表(④)に引き受けられることで、土壌の断面図という新たな形式へと変換される。言い換えれば、ある段階のアクターは先行する段階を質量とする形相として、後続する段階のアクターを形相とする質量として働くようになるわけだが、そこには常に変換に由来する非連続性(断絶)が伴う。》

《このように、各アクターの形式と物質性は他のアクターとの関係を通じて変形され、それらが入念に調整されることで一連の変換、「循環する指示(Circulating Reference)が形成される。世界と言語が正確に対応するという一般的で規範的な見解は、循環する指示が安定的に形成され、仲介項に変換されたあらゆる媒介項を省略できるようになった時にのみ暫定的に妥当なものとなる。》

《「個々の言語体系によって異なる仕方で経験世界が分節化される」というソシュール言語学の定式とは異なり、言語が世界を分節化する以前に、世界は様々な分節化の連鎖が生じている。(…)言葉(報告書の文章)が世界について何かを表象しうるのは、それが世界=アクターネットワークの中に適切な位置を占めることに成功した限りにおいて、つまり、自らに固有の形式と物質性において非言語的な分節化の連鎖に連なる限りにおいてである。》

《循環する指示を構成する内在的な関係性が、その一時的な効果として外在的な知識(報告書と土壌の対応)を産出する。》

●パストゥールによる乳酸発酵素の発見、について。

(パストゥールの論文により…)アクターXは識別不可能な存在(段階1)から発酵をめぐる諸作用の起源(段階5)まで、その姿を変化させてきた。この過程は、新たなアクター(乳酸発酵素)の働きが他の諸アクターをいかに変化させうるのかを明らかにする一連の「試行」(Trial)を経て、そのアクターがネットワークの一員となる(=実在するようになる)過程に他ならない。》

《ラトゥールによれば、パストゥールは同時に三つの試行に従事している。第一に、上記の論文を通じて酵母が発酵の単なる副産物ではなくその主要因であるという言説を流通させること、第二に、実験室の様々な非言語的要素を動員して発酵酵母が適切に豊かなパフォーマンスを行う状況を作り出すこと、第三に、アカデミーの同僚たちの検証によって第一の言説と第二の状況の間に必然的な結びつきがあることが明らかにされることである。全ての試行が成功すると、第一の言説はパストゥールの作り話ではなくなり、その背後に実在が確かに存在するようになる。言説と実体の対応を産出する「循環する指示」が確立されることによって、パストゥールは発酵酵母が生き物であることを証明できるようになり、それは醸造酵母とは異なる特定の発酵の引き金を引く実体となる》。

《発酵はパストゥールによって制作され、だからこそ、それはパストゥールの活動から自律した存在として現れる。》

(…)パストゥールというアクターがまず行っているのは、(A)〈アクターXの周囲に様々なアクターを配置し、それらがこうむる変化を特定していくことでXの存在を際だたせること〉である。この段階では、Xの有様は他のアクターとの関係に大きく依存している。パストゥールが諸アクターを組織することを通じてXの性質や働きが形成されていくのであるから、確かに彼はアクターX=乳酸発酵素を「制作」している。》

《しかし、彼の活動を通じてXが他のアクターと関係づけられていくことは、(B)〈他のアクターの有様が乳酸発酵素との関係に次第に依存するようになっていくこと〉でもある。発酵をめぐる多くの要素(培地の性質、溶液の科学的組成、生化学、チーズの製造法など)が乳酸発酵素の存在をあてにして定義され変形されるようになるにしたがって、乳酸発酵素の「真実らしさ」が強まっていく。パストゥールもまた、「乳酸発酵素の発見者」としての自らの地位や名声を、発酵素の働きに大きく依存している。この段階に至れば、あるアクターがいかに逸脱的に振る舞おうと乳酸発酵素の有様を大きく変えることはなく、逆に発酵素を軸に形成されてきた諸関係に適合的なかたちで自らを変えざるをえない。こうして、乳酸発酵素は他のアクターの働きかけに対して相対的に独立した実体(「実在」)となる。》

《パストゥールによる制作の過程(A)と乳酸発酵素が実在していく過程(B)は、個別の過程ではない。制作がより入念に行われるほど、実在はより確かなものとなる。》

(…)「パストゥールによって乳酸発酵素が発見された」という明言は、乳酸発酵素というアクターをあてにして一九世紀以来生み出されてきた無数の実践、階層的に拡大してきたネットワークの働きによってのみ正当化され、重みづけされる。(…)しかし、ネットワークが今後著しく変化していけば、乳酸発酵素が自然の事実ではなくなり、パストゥールの業績は明白な誤認や近似的な発見に修正され、発酵という現象が全く異なる仕方で説明されるようになることも十分にありうる。》

《彼(パストゥール)が実験室内外の諸アクターと互いに媒介項として関わりあう中で、次第に多数の媒介項(未規定の入力-出力関係)が少数の仲介項(一義的な入力-出力関係)に変換されていき、彼が語る「乳酸発酵素」と新らたな物質の対応を産出する指示の循環が形成されることで、外在的な知識が生みだされる。》

●パストゥール以前/以後、接ぎ木、外在は内在の効果にすぎない

(…)ラトゥールは、ある微生物がパストゥールによって無から創造されたとか、パストゥールや関連する諸集団の社会的合意に基づいて存在することにされたと主張しているわけではない。パストゥールがいかに雄弁に乳酸発酵素の実在を語っても、培地や溶液やアクターXが特定の仕方で働いてくれなければ、彼の言葉は何の説得力も持たない。さらに、パストゥールの制作以前に何らかの微生物が存在していて、それがパストゥールの実践と関わりを持つようになったのだろうことを否定する必要もない。パストゥール以前に発酵に関わる微生物がいたと推測することになにもおかしな点はない。ここまでのラトゥールの主張は、常識的な科学観と完全に一致している。だが、常識的科学観においては、さらに、その微生物がパストゥール以降の乳酸発酵素と完全に同一のものだとみなされる。それは明らかに言いすぎだとラトゥールは言っているのである。むしろ、微生物自体にとっての微生物もパストゥールが制作に着手した一八五〇年代に変容しはじめたのであり、「バストゥールとの出会いにより、微生物に変化が生じた」のだと彼は述べている。》

《パストゥールは彼以前から存在する発酵や微生物に自らの知識や人脈や実験室の諸要素を接続するという、いうなれば「接ぎ木」によって「乳酸発酵素」と呼ばれる確固たるアクターを作りあげた。》

《接ぎ木の良し悪しは、接続される植物が互いに同型であるかではなく、接続の強度や接続された植物の繁殖や特性の変化によって判断される。科学的な知識や技術もまた、それが自然の事実と正確に対応するか否かではなく、いかに諸アクターと強く結びつき新たな関係性を増やすかによって妥当性を増し、あるいは失っているのである。》

《科学もまたテクノロジーと同様に人間と非人間の媒介項同士としての関わりの産物であり、科学は循環する指示の形成により深く関わり、テクノロジーは循環する指示の応用により深く関わる点において実践的に区別されうるにすぎない。世界=アクターネットワークに内在する私たち人間が他の異質なアクターたちと様々に関わり、膨大な媒介項が少数の仲介項に変換されるにつれて、私たち人間が世界を外側から観察/制御しているように見える状況が一時的に生みだされる。》

《だが、外在は内在の効果にすぎない。私たち人間が特定の仕方で能動的に世界を観察/制御しえるのは、人間以外の存在者からの影響を特定の仕方で受動的に被りながら私たち自身が変化している限りにおいてである。したがって、「私たち」とは原理的には人間であると同時に非人間である。》

 

2019-08-28

●『高架線』(滝口悠生)、読んだ。

小説としての「つくり(語りや構造)」の面白さということについては分からないではないが、その「つくり」を支えている(というか、実際にそれをつくっている)具体的な細部の一つ一つについて、いまひとつしっくりしない感じがはじめからあって、読み進めていくにしたがってその「しっくりしない感じ」が少しずつ大きくなっていった。

たとえば、終盤になって映画『蒲田行進曲』の話がけっこう延々と語られる。そして、『蒲田行進曲』という映画そのものや、それについて語られる事柄は、様々なレベルで、小説の他の部分と分かちがたい関係や共鳴が張り巡らされている。ここで、この共鳴が一義的なものではなく、様々な場面、様々な人物、様々なレベルにおいて生じていて、がっちり食い込んでいるということが、この小説の「つくり」の複雑さや面白さを示していると思う。

ただ、当の『蒲田行進曲』の話そのもの、および、『蒲田行進曲』について語られる話そのものが、ぼくにはどうにも面白いと思えなかった。この『蒲田行進曲』の話、いいかげんもう終わらないのかなあと思いながら、終盤を読んだ。この小説においてこれは重要だし必要だということにはすごく納得する、しかし同時に、でもここ、面白くないんだよね、とも思ってしまう。

(面白い/面白くない、というのは主観的な判断で、これこそが面白いのだという人もいるだろう。)

もう一つの例。これは重箱の隅をつつくいちゃもんのように聞こえるかもしれないが。

ある失踪した人物が、秩父の山奥のうどん店で働いているという情報を得て、彼の友人三人が(正確には、二人の友人+一だが)、彼を訪ねるという場面がある。この時三人は、秩父へ向かう西武線のなかでたくさんのビールを飲んでおり、そして、駅についてバスを待つ時間にも、さらにビールを飲む。だが彼らは、この後、四十分くらいバスに乗って山奥へ向かって行かなくてはならない。

普通に考えて、トイレは大丈夫なのか、と思ってしまう。勿論、バスに乗る前には済ませておくのだろうが、だとしても、これだけ大量にビールを飲んでいると、かなり頻尿になるよね、と思ってしまう。電車なら駅ごとにトイレもあるだろうが、この人たちはこれから短くない時間バスに乗って、山に入っていくのだから、ここはもうちょっと抑えるのではないか、と。

この程度の違和感であれば、普通はスルーするという程度のことに過ぎない。ただ、この小説で登場人物たちはけっこう頻繁にビールを飲んでいる。歩きながらビールを飲み、昼間の公園でビールを飲み、部屋に戻ってビールを飲む。秩父のうどん店で失踪した人物と合った後も、彼らはビールを飲む。多くの人物が昼間から割と気軽にビールを飲むということが、この小説の基本的なトーンを形作る小さくない要素となっていると思う。

これだけ頻繁にビールを飲む人たちは、それなりに頻繁にトイレに行くのではないか。そして、頻繁にビールを飲む習慣をもつ人たちが、トイレのことを気にしないということがあるだろうか、と思ってしまう。つまりこの違和感は、ある特定の場面における(スルーすることも可能な)限定された違和感ではなく、小説全体にまで広がる。小説に頻出する「ビールを頻繁に飲む人たち」の、「ビールを飲む」という行為のリアリティの有無にかかわってしまうように感じられた。

つまり、この違和感によって、彼らが「頻繁にビールを飲む」ということ自体が、ある種の雰囲気を演出するというだけのものなのではないかという疑問が芽生えてしまう。彼らにとってビールは、生活や人柄の奥深くにまで食い込んだものではなく、そのごく表面を飾っているだけのものなのではないか、と。たばこを美味しそうに吸っているように見えるけど、実は雰囲気で吹かしているだけなのでは…、みたいな疑問(軽い不信の萌芽のようなもの)が生じてしまう、というような感じ。

読み進めていくにしたがって「しっくりしない感じ」が積み重なってきてしまうというのは、こういう、ほんのちょっとした小さい違和感やリアリティの齟齬の積み重ねということなのだが。最初の方はけっこう面白いなあと思って読んでいたのだが、次第に、ぼくと小説の間に薄い皮が一枚ずつ挟まっていき、最後の方を読むときはちょっと引いた感じになっていた。

(そして「銃」が出てくるところで、割と大きく「うーん」という感じになった。)

●これは、フィクションをたちあげるときのリアリティの基調となるチューニングをどうするのかという問題(小説・小説家が行うチューニングの幅と、読者が納得するチューニングの幅とのズレの問題)で、おそらく、この小説のチューニングに最初から何の違和感ももたない人もいるだろうと思う。

(そしてこのようなチューニング幅は、大きく隔たっている人同士よりも、中途半端に近い人同士の方が「違和感」が際立ってしまうのだと思う。そして、自分自身のチューニング幅を他の人に対して正当化することはできない。しかし、それ自体が自分と世界との関わりの根底にあるようなものだから、そう簡単に相対化する---譲る---こともできないものだ。)

(この小説がどうこうというより、この小説を読み進めることで自分のなかで起こったことが気になったので、このようなことを書いた。)

 

2019-08-27

●引用、メモ。久保明教『ブルーノ・ラトゥールの取説』、第一章テクノロジーとは何か、より。

●アクターであると同時にネットワークでもある 

《差異を生みだすことによって他の事物の状態に変化を与えうるものはすべてアクターであり、それらは相互に独立したものではない。各アクターの形態や性質は他のアクターとの関係の効果として生みだされる。アクターの働きによって異種混交的なネットワークが生みだされ、アクターはネットワークの働きによって定義され、変化させられる。このため、「アクターネットワーク」とは、アクターであると同時にネットワークでもある。したがって、円形の項とそれをつなぐ線分で描かれるような一般的なネットワークモデルではアクターネットワークは捉えられない。円が線に、線が円になる。原理的に不安定な動態の内部に自らの視点を位置づけることを、アクターネットワークという概念は要求する。》

《「翻訳」とは、あるアクターを起点にして種々のアクターが結びつけられ共に変化していく過程である。この過程を省略した表現として、前者が後者を「翻訳」するとも言われる。》

●アクターネットワークとは、外側から世界を分析するためのモデルではない

(…)「社会」とはもはや人間を中心とする通常の意味での社会関係ではない。それは、「アクターネットワーク」と呼ばれる異種混交的なアソシエーションそのものであり、既存の用法において別種の領域とされてきた「社会」も「テクノロジー」もそこから生じるものに他ならない。》

(…)研究者もまたそのような世界の内側を生きている。だからこそ、研究者にできることは---自らもアクターとしてそこに連なりながら---アソシエーションを組み替えていこうとするアクターの動きを追い、そこから学ぶことしかない。》

《アクターを追うことは、ネットワークに連なることに他ならない。したがって、アクターネットワークとは、外側から世界を分析するためのモデルではない。研究者もまた世界(アクターネットワーク)に内在しており、ネットワークの動態は所与のルールや構造によって規定されない。》

(…)私たちは、異種混交的なアソシエーションの外部にいるわけではない。だからANT(アクターネットワークセオリー)は科学技術をアクターネットワークとして捉えることでその新たな制御方法を提案する方法論ではない》。

(…)銃を用いた行為を規定するのは銃と人間が結びついて生み出される第三のエージェントである。》

《私たちは、銃の使用に関して外在的な位置を保つことはできない。人間は「人間+銃+…」の一部であり、アクターネットワークに内在している。ラトゥールの用語を離れて言えば、私たちはテクノロジーへと生成している。ただし、ここでいう「生成」(Becoming)とは、そのものと同一になることを意味するわけではない。市民は銃になるわけではなく、「市民+銃+」になる。》

《市民と銃は互いに異質な存在である。銃は市民のように討議によって合意を形成したりしないし、市民は銃のように引き金を引かれても発砲しない。市民と銃という互いに異質な存在が結びつくことによって他の様々なアクターを巻き込むことが可能になり、それによって両者は大きく変容していく。異質な二者の結びつき(ハイブリッド)よりも、それが起点となって他の様々なアクターが巻き込まれること(翻訳)が重要である。「市民+銃」は害獣を射殺する猟師になるかもしれないし、徴兵されて異国の戦場に赴くかもしれないし、銃規制運動のリーダーになるかもしれない。》

●非還元の原理

《いかなるものも、それ自体において、何か他のものに還元可能であることも還元不可能であることもない。》

(…)哲学的な概念構築に基づく「非還元」論考は、この世界がいかなるものであるかを関係論的に捉え直す存在論的水準に踏み込んでいる。》

《科学的な知識や技術の自律性を重視する人々は、社会構成主義を、理性的思考によって自然の事実を探求する科学者の営為を社会集団間の力学に還元するものだとして批判する。一方の社会学者は、自律敵発想を、集合的で社会的な理性の働きによって保証されるべき知識の妥当性を理性と自然の純粋な結合の力に還元するものだとして批判する。両者はいずれも、自らが依拠する「自然」や「社会」への還元を理性的なものとみなし、もう一方への還元を暴力的なものとみなしている。》

《非還元の原理は、こうした相互排他的対立を解除するために導入されている。知識や技術の妥当性は所与の「自然」や「社会」に還元できない。それらを支える諸要素は互いに結びついており、諸要素がおりなす関係の動態を通じて、知識や社会を還元できるような「自然」や「社会」のあり方が暫定的に生みだされる(=「還元不能であるわけでもない」)。》

《非還元主義は(…)、理性と力の二項対立を関係の一元性に置き換える発想である。》

ANTは、「技術」や「自然」や「社会」を確固たる実体として見なすことをやめ、原理的に還元不可能な諸要素の原理的に制限のない結びつき(=アクターネットワーク)から出発することで、「まだ残されているあらゆるもの」に目を向けるための方法論である。》

●仲介項と媒介項

ANTは非人間を一人前のアクターとして扱う。その理解は間違いではないが、人間も非人間も仲介項としてではなく媒介項として扱われることがより重要である。》

《市民(人間)と銃(非人間)という二つのエージェントが結びつく時、両者が合成されて新たなエージェント「市民+銃」が現れる。この第三のエージェントの働きが、第一のエージェント(市民)に内在する意図(目的①)に完全に従うと考えると、「善良な市民は銃を持っていても発砲などしない」という道具説(社会構成主義)的な説明になる。一方、銃という第二のエージェントに内在する殺傷という機能(目的②)に完全に従うと考えると、「善良な市民でも銃を持てば殺人を犯しかねない」という自律説(技術決定論)的な説明になる。(…)それらは、入力に対して一義的に出力を返す仲介項(Intermediary)として把握されている。》

《だが、より一般的には第三の可能性が実現される。二つのエージェントが互いに互いの行為を変容させる媒介項(Mediation)として働くとき、それぞれが元々持っていた目的が変化する。媒介項への入力に対する出力は前もって規定できず、媒介項との関わり自らを予想できない仕方で変容させるのである。たとえば、相手を殺すつもりで銃を手にした人(エージェント①)であっても、手にした銃(エージェント②)の重さに我にかえって、殺人をやめるかもしれないし、銃で脅して相手を屈服させようとするかもしれないし、銃で人を殺そうとした自分に嫌気がさして自殺してしまうかもしれない。こうして、あらかじめ想定される目的とは異なった新しい目的(③=殺人の中止、脅迫、自殺など)が生みだされる。》

(…)「媒介」という概念は、科学者や技術者の受け売り以上のことに取り組むことを要請する。彼らが一般向けに語ってくれるのは、仲介項としての知識や技術の有様でしかないからである。》

●媒介項のブラックボックス化、内在と外在

《ただし、「媒介」や「翻訳」といった概念は、還元主義的発想を単に批判するためにではなく、非還元主義によって還元主義を包摂するために導入されている。一般的な仲介項の働きが例外的な媒介項の働きによって相対化されるのではなく、むしろ、一般的な媒介項の働きによって例外的な仲介項の現れが説明されるのである。》

(…)定義されるアクターネットワークは原理的に不安定なものである。だが、各アクターの行為を通じてネットワークが相対的に安定し、一定の持続性を持つようになると、アクターネットワークは暫定的にではあれ確固たる世界の有様を生みだす。媒介と翻訳の過程を通じて種々のアクターが綿密に結びつけられ、各アクターが共に向かえるような新たな目的が構成され、特定のアクターが他のアクターが行動する際の必須の通過点となり、アクター間の隊列が整えられるようになる。この段階までくると、諸アクターの関係性の全体が一つのアクターとして他のアクターと関係を結ぶことが可能になり、内部の諸アクターの働きは他のアクターに直接影響を及ぼさなくなる。こうした「ブラックボックス化」(Black Boxing)と呼ばれる契機に至って、媒介項(未規定の入出力)は一時的に仲介項(一義的な入出力)に変換される。》

《このように、アクターネットワークは外側からの境界づけや外部環境とのシステム論的相互作用によって安定するのではなく、アクターがネットワークを構成し、それらのネットワークがブラックボックス化されて一つのアクターになり、さらにそれと他のアクターが構成するネットワークがアクターになる……という多レイヤーの入れ子構造を形成することで安定していく。ただし、それは常に暫定的な階層性でしかなく、特定のレイヤー内に関係が限定されるわけでもない。》

《私たちは、それと結びつくことによって自らがどう変化するか全く予想できないまま自らと結びつきつつあるものを「先端技術」と呼び、すでに自らそれと密接に結びついてしまったためにその他者性を忘却してしまったものを「技術」と呼んでいるにすぎない。両者には、生成のプロセスの進行具合に応じた連続的な違いしかなく、そのプロセスは私たちが制御できるものではない。》

《人間もアクターネットワークに内在している。ただし、アクター間の媒介の働きが安定化することで、諸アクターを仲介項として対象化できるようになる。私たちが自らと同一視している「人間」という形象は、膨大な非人間的媒介項との相互依存関係によって成り立つアクターのあり方がブラックボックス化されたものであり、それが常に私たち自身であるとは限らない。》

《私たちは媒介項の群れとして世界に内在しているからこそ、その派生的で一時的な効果として、仲介項に満ちた世界に外在することもできる。》

 

2019-08-25

●「秋の気配が…」というのはまだはやい。しかし、「もうすぐ夏も終わっちゃうんだなあ」という軽い感傷が惹起される、というような音楽。

Pacific / Suchmos

https://www.youtube.com/watch?v=yCB2kCle56c

maco marets - Summerluck

https://www.youtube.com/watch?v=KcX3vTd9qi4

Blue / 鈴木真海子 suzuki mamiko (Prod.TOSHIKI HAYASHI)

https://www.youtube.com/watch?v=9XsrBfyd6vQ

End of Summer (feat. MUD & Dian) MIKI (KANDYTOWN)

https://www.youtube.com/watch?v=5nJPxHWPhZA

mabanua - talkin' to you (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=kxssD6qI5r0

Alfred Beach Sandal + STUTS - Horizon 

https://www.youtube.com/watch?v=9VYJF5DqxxY

STUTS - Dream Away feat. Phum Viphurit 

https://www.youtube.com/watch?v=7OW7UxHOXI4

フィロソフィーのダンス「アイム・アフター・タイム」

https://www.youtube.com/watch?v=sZ84mBWqnDc

Kirinji - Sweet Soul

https://www.youtube.com/watch?v=XVi_koYrmao

The Venus Original Love

https://www.youtube.com/watch?v=3_G27kQoCGI

Tatsuro Yamashita - あまく危険な香り

https://www.youtube.com/watch?v=kuBPceUPYKw

矢野顕子 海と少年

https://www.youtube.com/watch?v=zOUarDyrg58

Taeko Ohnuki - 都会

https://www.youtube.com/watch?v=ck11pWTc2g8

 

2019-08-24

RYOZAN PARK巣鴨で、保坂和志「小説的思考塾 vol.5」。今回は〈死の問題〉について。以下の話は、保坂さんのした話とは大きくズレています。

●保坂さんにとっては、死はそれほど怖いものではないという。たとえば、全身麻酔を受けたときに訪れるまったくの無。死がそれと同じようなものであれば恐れるようなものではない、と。しかし一方に、死を強く恐れる人たちがいる。

ぼくには、死への恐怖が強くある。死への恐怖は、いわば無限に対する恐怖だと言い換えられる。死によって、有限なものでしかない「このわたし」が無限に触れてしまうということの恐怖。直に無限に触れることの恐怖。だから、死への恐怖というとき、死ぬのも怖いし、死なないのも同じくらい怖い、ということになる。

「わたし」は生きている限り死ぬことができる。つまり、「終わる」ことができる。しかし、死んでしまえばもう、終わることができず、どこまでも、ただひたすらとりとめもないもの(とりとめのない無かもしれないし、よくわからないが)となる。この、無限という概念がたまらなく怖いのだ。たとえば、「対角線論法」というものをはじめて知ったときのような、とりとめのなさが剥き出しに迫ってくるような恐怖。

(だから、意識のアップロードによる不死、のようなものでは---というか、そもそも「不死」では---この恐怖の解決にならない。)

ただ、救いがあるとすれば、「無限」という概念が、人類が生み出した誤謬である可能性もあるのではないか、ということだ。たとえば物理学は、物質というものがどうやら無限に分割可能ではなく、ある一定の閾値を越えるとそれ以上は(数式でしか表現できない)空を掴むようなものとなり、我々の考える物質とはまったく別物になるということを明らかにした。同様に、この宇宙にはそもそも「無限」などというものは原理上存在できない、という可能性もあるのではないか。

(無限とはそもそも、人間の認識能力のその先、というのを示しているに過ぎないのではないか、と。)

●それとはまた別に、恐怖への恐怖というものもある。わたしは死が怖い、というとき、その恐怖は「わたし」のものでしかない。ならばきっと「わたし」が消えればその恐怖も消えるだろう。しかし、恐怖という感情(情動)は「わたし」だけのものではない。この地球上の、ある一定以上に進化した生物のなかには恐怖という感情が確実にあるだろう。つまり、この宇宙のなかで、あるとき恐怖は生まれたのであり、少なくともこの宇宙には、恐怖を生成するに足りるなんらかの源基がもともと存在した。

ならば、この宇宙にはそもそも恐怖(の元)のようなものがあり、それが宇宙のごく一部でしかないとしても、この宇宙が無限定である限り、それ自体として無限邸で剥き出しの恐怖の源基が存在するのではないか。わたしの死によって、「わたし」という有限の限定が解かれたとしたら、そのような、無限邸で剥き出しの恐怖の源基と、直接的に、永遠に、とりとめもなく、触れ続けるということもあるのではないか。

勿論、そのときに恐怖に触れているのは(あるいは恐怖そのものであるのは)既に「わたし」ではない。しかし、「わたし(限定)」ではないからこそ、その恐怖にはとりとめがなく(底がなく)、終わりがなく、逃れようもなく、ひたすら強度としての恐怖そのものでありつづけるしかないのではないか、と。

(宇宙が恐怖を内在させているのならば、「わたし」という限定された視点を失ってしまえば、目を背けることすら不可能となり、常にそれと共に在りつづけるしかなくなるのではないか。「わたし」は無いとしても宇宙はあるのだから。)

(もしかすると「恐怖」とは、ある限定のなかでしか成り立たないものなのかもしれない。ならば、「わたし」の恐怖はあっても、宇宙全体としては、恐怖はないのかもしれない。とはいえ、宇宙のなかには常になにかしらの限定が存在するのだろうから、常にどこかには恐怖はあることにはなる。)

●「死」とか「不死」とか「無限」とかいう概念を、根本から考え直して変質させることができないと、ぼくにとってのこの恐怖は解決しない。

樫村晴香さんが一時帰国していて、その機会に、916日に同じRYOZAN PARK巣鴨で樫村さんのトークがある。樫村さんの話を聞けるのは2013年の立命館以来だ。既に満席だそうだが。

2008年、青山ブックセンターでのトークについて。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20081025

Ryohei Tomizukaさんによる「2008樫村晴香トークショーのメモ」(note)

https://note.mu/t_m_r/n/n9961771686b5

2013年、立命館でのトークについて。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20130108

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20130109