2020-01-22

●教育者はよく、特別な才能をもった人や、特異な芸風(スタイル)を確立した人の名前を挙げて、「誰でもが○○のようになれるわけではない」とか言って、(極端な、ヘンなものにかぶれるのはやめて)、凡庸である「我々」は、まず、とりあえずはスタンダードなやり方を学べ、という形の抑圧をかけてくる。

(社会のなかで、そこそこ幸福に暮らすためには、この抑圧を受け入れることが正しいのかもしれない。ただ、ぼくにはそれは我慢できないことだった。)

「誰でもが○○のようになれるわけではない」のは当然のことだ。結局、私は、(一つの個別性---個性ではない---としての)私自身にしかなれないのだから。しかし、一つの個別性としての「私自身」になる過程として、ある極端な、偏った「(私とは)別の在りよう」に「かぶれる」ことは悪いことではないと、ぼくは思う。というか、それはほとんど避けられない必然なのではないか。

(ある極端な、偏ったものにかぶれることを通じて、私は、けっきょく個別である私自身にしかなり得ない---私自身としてしかあり得ない---ことを知る。「まずはスタンダードなやり方を学ぶ」ということからは、一般性と---個体としての私における---そこからのズレ、くらいの認識しか得られないと思う。)

すくなくとも芸術においては、そのもっとも優れた(飛び抜けた)ところと、そのもっともあやうい(弱い、あるいは危険な)ところとは、ほとんどの場合同じ場所にあり、不可分である。それが、どちらとして出てくるのか(その「同じところ」が、長所=奇跡として出るのか、短所=無力としてでるのか)は、その場次第、どっちもどっち、神のみぞ知る、だろう。

しかし、実はその短所=無力こそが可能性の源泉であり、だから、短所を削れば、その分だけ、長所(可能性)もまた削られて、減っていくのだと思う。

2020-01-21

●一話、二話を観逃しているが、『映像研には手を出すな!』第三話を観た。監督は苦手な湯浅政明だけど、おそらく原作のテイストの再現を重視しているためだと思うけど、湯浅政明臭はかなり薄まっているのでぼくにも観やすい(でも、うっすらだけど湯浅感はちらちらとある)。

原作は読んでいないのだけど、これはマンガだから成り立っているというところがけっこうあるのではないかと感じた。マンガからアニメへのメディウムのトランスレーションがあることで立体化している部分があるのではないか。これをアニメでやってしまうと、(アニメからアニメへと横滑りするだけなので)あまりに自己言及的になりすぎるというか、のっぺりとした内輪ノリにみえてしまうのではないか、と。

三話だけしか観ていないせいかもしれないが、割と平板だという印象を受けてしまった。

●OPがchelmicoで、おおっと思った。曲のタイトルが「Easy Breezy」なのだけど、このタイトルからはどうしても宇多田ヒカルの方が連想されてしまう(すごく好きな曲)。

Utada - Easy Breezy

https://www.youtube.com/watch?v=RpqTJySA5Sc

2020-01-20

東工大で講義。講義の後の感想のシートに、「今までそんなことを意識してアニメを観ていなかった、この講義で聞いたことをふまえて、改めてもう一度作品を観直したい」と書かれているものがいくつかあって、それは素直にうれしかった(まあ、講義の感想のテンプレの一つかもしれないが)。去年まで高校生だった(浪人かもしれないが)一年生が相手の授業だったので、彼、彼女たちのなかで新しい何かが開かれるきっかけになればいいなと思う。

(何かを「分かったような気になる」のではなく、自ら進んで、作品を観たいと思ったり、勉強したいと思ったり、何かを作りたいと思ったりするような、刺激となるような何かになればいいのだが。)

大学で講義するという機会は年に二、三回くらいはあって、そのたびに、そこで自分がなにをすべきなのかよくわからなくて戸惑うところがある。ぼくは、いわゆるアカデミックな専門分野のようなものを持たないので、知識を伝えるというようなことは、ぼくのすることではない。それと、ぼくは過去に「良い教師」という存在と巡り会ったことがなく、「教師」という存在に対する拭いがたい不信感や軽蔑のようなものが---若い頃よりはずいぶん抜けたと思うけど---底に染みついてしまっている。中・高生の頃のぼくは、死んでも教師のような人種にだけはなりたくないと思っていた。今でも、「あたかも先生であるかのように話す(解説する)人」は苦手だし信用できない。

(人を、「○○先生」と呼べないのは、ぼくにとってそれが蔑称だからだろうか。)

(大人になってから、「教師をやっている良い人」に出会ったことは多々あるが、若いときに自分にとって「良い教師」と思える「人」には出会えていない。ぼくにとって教師は常に「作品」であるか「言説」であり、基本として自分勝手なつまみ食い的独学しかしていない。そしてそのことは自分の大きな「弱点」だと思っている。)

(しかしそれと同時に、掟の門の番人のような、あるいは「○○警察」のような態度で「教師」であろうとする人への軽蔑を抑えることも難しい。)

おそらく、ぼくが「講義」としてやっているのは、自分が考えたことや感じたことをプレゼンして、「ぼくはこれをこう考えると面白いと思うんだけど、どうかな…」と問いかける、ということなのだと思う。そういう意味で「教育」ではないのではないか。ぼくは「教育」と相性がよくない。よく「教育」されていないから。

2020-01-19

テレビ東京、『コタキ兄弟と四苦八苦』第二話。一話目で小ネタ1、二話目で小ネタ2を繰り出して、終わり間際に、小ネタの背後にそれと関連する大ネタの在処を匂わせた、というのが二話までの展開だろう。次の第三話では、これまでの意外な細部が伏線として前景化しつつ、全体の構図がくるっと転回するような展開を期待したい。野木脚本ではけっこう三話目がキーになることが多いように思う。

(案外、今回はのっぺりと進む、という可能性もありそうだが。)

野木亜紀子の脚本のドラマには、NHKが製作した『フェイクニュース』という作品もあるのだけど、このドラマをNHKは配信していないので、観たいのに、観られない(新井浩文が出ているからなのだろうか…)。

2020-01-17

●引用、メモ。最近の郡司ペギオ幸夫が言っていることでぼくが興味があるのは、以下のようなこと。多数の「できない」という可能性が潜在力となって、「できる」を支えている(それはつまり、「できる」という奇跡より、「できない」ことの潜在力の方がえらい、ということでもあると思う)。

100%イヤホンではなく、「むしろイヤホン」という程度でよい(かんかん!)

http://igs-kankan.com/article/2019/06/001177/

《できる可能性が奇跡的に選ばれて、できない可能性が排除されている。それだけではなくて、たぶん、できない諸々の可能性が「潜勢力」としてあるからこそ、その奇跡的に実現されたものが非常に安定的に存在できているんですね。僕は、化学反応「物質Aが、触媒αによって物質Bに変わる」といったことも、そういう性質を持っていると考えています。認知や感覚の問題が、物質にもある。》

《ちゃんとした条件を用意しさえすれば「AがαによってBに変わる」ことは完全にコントロールできて、そういった反応を適切に集めることで、AがBになって、Cを経由して……と繰り返すことで、最後はAに戻るサイクルができるはずだ。こういう考えのもと、皆、生命の起源を再現しようとしているわけです。》

《ところが、実際はぜんぜんうまくいきません。AがBになる、そういう一方向的なものはつくれる。つなげることもできる。でも、ずっと回り続けることを考えると、非常に難しくなって、できなくなってしまう。ちょっとでも環境条件が変わると、反応が不安定になって、反応経路が壊れてしまうからです。これはおそらく「αがあればAがBになる」とプラモデルのように考えているからだと思います。》

《本当は、ほとんどのAはたしかにBになる。しかし、タンパク質など生命を構成している物質にはAだけでなくA’、A’’、A’’’と少しずつ違う、ものすごくたくさんの立体構造がある。それらはαによってもBにならず、B’、B’’、B’’’というよけいなものもつくり出しちゃう。そしてAやBなどのメジャーなものがうまく作動しないときや、枯渇したときには、控えていたA’、A’’、A’’’やB’、B’’、B’’’がその反応を動かしている。そういうことなんじゃないかと思います。》

《つまり、ある原因を実現するための可能性として、目に見えない、データで算出されないものがたくさん控えていて、それによって、実現されている当のものが非常に頑健に維持される。同じ反応が維持されるというのは、実は異なるものの接続とまとめ上げで実現されている。》

《(…)異なるものが実現する同一性。それを再現するには、そのあいだにズレがあったり、時間が非同期だったり、ということを含めてデザインしないとできない。AからBへの反応の同一性は「ほかでもないAが、ほかでもないBに変わる」ことだと考えると、頑健につくれないんじゃないかと思います。》

●これは、『読書実録』の書評に書かれていたことともつながっていると思われる。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/2019/12/09/000000

2020-01-16

20日東工大で講義をする予定があるので、そろそろ、気持ちを少しそちらの方へも向けていかなければならない。とはいえ、以前、院生に向けてやった講義とほぼ同じ内容を、今度は学部生に向けてするので、前のスライドを見直して、ところどころ修正するくらいで大丈夫だと思う。

それよりやらなくてはいけないのは、すっかりひきこもりモードになっているので(何日も近所のコンビニくらいにしか外出していないし、何日もひげを剃ってもいない、風呂は---頭をリラックスさせるために---毎日入っているが)、少しずつこころを「外に出る」モードに向けていくということの方だろう。

睡眠時間を、昼夜逆転から少しずつずらしていくとか。