●東工大で講義。講義の後の感想のシートに、「今までそんなことを意識してアニメを観ていなかった、この講義で聞いたことをふまえて、改めてもう一度作品を観直したい」と書かれているものがいくつかあって、それは素直にうれしかった(まあ、講義の感想のテンプレの一つかもしれないが)。去年まで高校生だった(浪人かもしれないが)一年生が相手の授業だったので、彼、彼女たちのなかで新しい何かが開かれるきっかけになればいいなと思う。
(何かを「分かったような気になる」のではなく、自ら進んで、作品を観たいと思ったり、勉強したいと思ったり、何かを作りたいと思ったりするような、刺激となるような何かになればいいのだが。)
大学で講義するという機会は年に二、三回くらいはあって、そのたびに、そこで自分がなにをすべきなのかよくわからなくて戸惑うところがある。ぼくは、いわゆるアカデミックな専門分野のようなものを持たないので、知識を伝えるというようなことは、ぼくのすることではない。それと、ぼくは過去に「良い教師」という存在と巡り会ったことがなく、「教師」という存在に対する拭いがたい不信感や軽蔑のようなものが---若い頃よりはずいぶん抜けたと思うけど---底に染みついてしまっている。中・高生の頃のぼくは、死んでも教師のような人種にだけはなりたくないと思っていた。今でも、「あたかも先生であるかのように話す(解説する)人」は苦手だし信用できない。
(人を、「○○先生」と呼べないのは、ぼくにとってそれが蔑称だからだろうか。)
(大人になってから、「教師をやっている良い人」に出会ったことは多々あるが、若いときに自分にとって「良い教師」と思える「人」には出会えていない。ぼくにとって教師は常に「作品」であるか「言説」であり、基本として自分勝手なつまみ食い的独学しかしていない。そしてそのことは自分の大きな「弱点」だと思っている。)
(しかしそれと同時に、掟の門の番人のような、あるいは「○○警察」のような態度で「教師」であろうとする人への軽蔑を抑えることも難しい。)
おそらく、ぼくが「講義」としてやっているのは、自分が考えたことや感じたことをプレゼンして、「ぼくはこれをこう考えると面白いと思うんだけど、どうかな…」と問いかける、ということなのだと思う。そういう意味で「教育」ではないのではないか。ぼくは「教育」と相性がよくない。よく「教育」されていないから。