●四十歳をとうに過ぎて、今月末には四十二歳になるのだが、この年齢になってふと気づくのは、二十歳くらい年下の人に対しても、また逆に年上の人に対しても、ごく自然に「尊敬する」という感情が持てるようになったということだ。若い頃はまだ、先行する世代への反発とか、若い世代への不満のような世代的な感情に大きく影響されることもあったけど、ちょうど人生の半分くらいの年齢になって思うのは、年齢差や世代差なんてほとんど意味がない、ごくごく小ちゃいことだということだ(年齢や世代や時代が違えばいろいろ違うのはあたりまえで、だからこそその次元での「違い」にはほとんど意味がない)。そのように思えるのは、おそらくたんに年齢ということだけでなく、最近、自分よりも二十歳ちかく年下の人のする仕事で、素直に「尊敬できる」と思えるものに、いつくか触れることが出来たということがあるのだろう。これは、今の二十代の人たちの一般的な傾向を好ましいと感じているということではなくて、それはむしろまったく逆なのだが(おっさんなのだから、それは当然のことだ)。重要なのは、(年齢や世代によって当然ある様々な「違い」を越えて)その人自身や、その人の仕事が尊敬出来るものであるのか、そうでないのか、ということだけだ。ことあるごとに、世代間の格差、距離、抗争を煽り立てるようにして言葉を組織する人がいるけど、ぼくにはそういうものの「意味」があまりよく分からない。
●ただ、こういうことを平気で言ってしまう自分は、抑圧者-教育者-父親、的な立場にたつのにまったく相応しくない人間なのだと思うのも確かだ。幸か不幸か、未だ、そんな立場にたったことはないのだが、それがある種の責任の放棄なのだという自覚がないわけでもない(特に「終の住処」みたいな小説を読むと一層それを思い知る)。そんなことが言えるのは、子供、生徒、弟子、部下、後輩、等々に相当する相手がいないから、そのような関係性からずっと逃げつづけているからだろう、と思う(親、教師、師匠、上司、先輩、等々にあたる人たちからは、少なからず恩恵と抑圧を受けているというのに)。とはいえ、ぼくみたいなのが、いまさらそういう種類の「責任」に目覚めてもロクなことにはならないので、そこは無責任でいくけど。
●ぼくが負うべき責任を感じるとしたら、おそらくそれは「作品」に対してだけだ(決して「美術史」ではなく「作品」だ)。セザンヌの作品が存在し、マティスの作品が存在することに対する責任。あるいは、ピエロ・デラ・フランチェスカの作品が存在することへの責任。それはとてつもなく重い重圧なのだが、そこからは逃げられない。その責任を負うということの内実は、作品をつくるということの内部にしかないだろう。