2020-01-22

●教育者はよく、特別な才能をもった人や、特異な芸風(スタイル)を確立した人の名前を挙げて、「誰でもが○○のようになれるわけではない」とか言って、(極端な、ヘンなものにかぶれるのはやめて)、凡庸である「我々」は、まず、とりあえずはスタンダードなやり方を学べ、という形の抑圧をかけてくる。

(社会のなかで、そこそこ幸福に暮らすためには、この抑圧を受け入れることが正しいのかもしれない。ただ、ぼくにはそれは我慢できないことだった。)

「誰でもが○○のようになれるわけではない」のは当然のことだ。結局、私は、(一つの個別性---個性ではない---としての)私自身にしかなれないのだから。しかし、一つの個別性としての「私自身」になる過程として、ある極端な、偏った「(私とは)別の在りよう」に「かぶれる」ことは悪いことではないと、ぼくは思う。というか、それはほとんど避けられない必然なのではないか。

(ある極端な、偏ったものにかぶれることを通じて、私は、けっきょく個別である私自身にしかなり得ない---私自身としてしかあり得ない---ことを知る。「まずはスタンダードなやり方を学ぶ」ということからは、一般性と---個体としての私における---そこからのズレ、くらいの認識しか得られないと思う。)

すくなくとも芸術においては、そのもっとも優れた(飛び抜けた)ところと、そのもっともあやうい(弱い、あるいは危険な)ところとは、ほとんどの場合同じ場所にあり、不可分である。それが、どちらとして出てくるのか(その「同じところ」が、長所=奇跡として出るのか、短所=無力としてでるのか)は、その場次第、どっちもどっち、神のみぞ知る、だろう。

しかし、実はその短所=無力こそが可能性の源泉であり、だから、短所を削れば、その分だけ、長所(可能性)もまた削られて、減っていくのだと思う。