2020-11-08

●群像の乗代雄介「旅する練習」を読んで動揺してしまった。このようなラストは、「あり」なのか「なし」なのか。このように書いてもよいものなのか、書くべきではないのか、分からない。基本的には、このように書くべきではないと考えるが、しかし、この出来事については、このようにしか書きえない、ということなのかもしれない。難しい。

(これはたんに、結末のつけ方の問題ではなく、小説としてのあり様の問題となる。)

たとえば、前から順に読んでいるとき、不自然に肩の力が入っているような違和感を持った下に引用する文章も、最後まで読んだ後ならば納得できる。また、いまいちしっくりこないと感じていた「忍耐」という語の使い方も、最後まで読めば納得できる、等々…。つまり、ラストから遡行することで伏線が回収されるとても精密なミステリのような形をしているのだが、この小説の内容(描かれる出来事)とそのような形式とは、整合的であるのだろうか、と。

《私しか見なかったことを先々へ残すことに、私は---少しあせっているかも知れないが---本気である。そのために一人で口を噤みながら練習足らずの言葉をあれこれ尽くしているというのに、そのために本当に必要とするのはあらゆる意味で無垢で迷信深いお喋りな人間たちだという事実が、また私をあせらせる。》

《そして、本当に永らく自分を救い続けるのは、このような、迂闊な感動を内から律するような忍耐だと私は知りつつある。この忍耐は何だろう。その不思議を私はもっと思い知りたいし、その果てに心のふるえない人間が待望されているとしても、そうなることを今は望む。この旅の記録に浮ついて手を止めようとする心の震えを静め、忍耐し、書かなければならない。後には文字が成果ではなく、灰のように残るだろう。》

●(ここには具体的に書かないが)このようなラストがあり得ることを、かなり終盤になるまで気がつかなかったので---読者として素朴すぎるのかもしれないが---このようなラストがあり得ると気づいた時のショックが大きくて動揺し、混乱してしまったのだが…。「現実」は、まさにそのように不意打ちとして訪れるものだ、ということなのか。また、作品から感傷的な気配を消すためには、このように書くしかなかったということなのか。(読み終えてから少し時間が経ち、この文章を書いたりして、動揺がやや収まって…)そう考えるなら、納得できるようにも思える。

このようなラストをもつ「この作品」についてどう考えればいいのか、しばらく悩み、考えることになる。

2020-11-07

文學界の鴻池留衣「わがままロマンサー」とても面白かった。前作(「最後の自粛」)も面白かったが、結末がやや素直すぎるというか、着地の前にもう一ひねりが必要ではないかとも思ったのだが、この作品では、展開も着地も、常にこちらの予想の斜め上をいくもので、完全にやられたという感じだった。

(この作品から連想されるものといえば、神代辰巳『悶絶!!どんでん返し』か。)

2020-11-06

YouTube巡回で最近気になった曲のメモ。

ASOBOiSM / ナイーブ

https://www.youtube.com/watch?v=-HxRkpC4-70

瀬戸際のマーマレード / Nao Kodama × Kan Sano(Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=LqmaTZhWYo0

星野源 – Ain’t Nobody Know [Official Video]

https://www.youtube.com/watch?v=deIS1BmSfZQ

Awesome City Club / 最後の口づけの続きの口づけを

https://www.youtube.com/watch?v=e4QzKKKSdEM

I Don't Like Mondays. / MR.CLEVER

https://www.youtube.com/watch?v=Zkmi3EDj_LA

NEIGHBORS COMPLAIN "Shine On" (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=fsnoInDGV1s

STUTS × SIKK-O × 鈴木真海子 - 0℃の日曜 (Audio)

https://www.youtube.com/watch?v=az4Obbq-61A

TENDRE - SKIN | TOWER DOORS

https://www.youtube.com/watch?v=XVrEPmapOaM

MELLOW MELLOW「マジックランデブー」MV

https://www.youtube.com/watch?v=uHHzXf_JrQw

2020-11-05

アップアップガールズ(仮)から四人卒業(現五人のうち一人だけ残って新体制)というのはさびしい。アブガ(仮)が特に好きだったということはないが(曲もあんまり知らないのだが)、アイドルに興味をもったきっかけが「梅酒の休肝日」と「スナックうめ子」だったので(だから、最初に興味をもったアイドルグループはメンテナンスだった)、「スナックうめ子」の主要アクターのうちの一組であるアブガ(仮)に対しては、アイドルをみるようになってからずっとみてきたという親近感のようなものがある。

アブガ(仮)の現メンバーはすべて、2004年にハロプロエッグに入った人たちなので(和田彩花福田花音と同期)、キャリアとしてはもう16年ということになる(グループ結成は2011年)。年齢からしても、メンバーがそれぞれ別の将来を考えるというのは、残念だけど、納得はできる。

ただ、2018年に、Ciao Bella Cinquetti、バニラビーンズ、パスポなど、キャリアが十年近いかそれ以上の中堅グループが相次いで解散した時も、揺らぐことの無い安定感があったので、当分はこのままの感じなのだろうと油断していた。

(解散するわけではなく、オリジナルメンバーを一人残して「新体制」になるのだが。)

卒業して、芸能活動をやめるのだとしても、「スナックうめ子」にだけは出てくれないだろうかと思うのだが、難しいか…。

●アブガ(仮)の古川小夏新井愛瞳がメンテナンスに入るくだり(23:15くらいから)。

スナックうめ子2部 2018年12月16日

https://www.youtube.com/watch?v=gf_PUQSr2j0&t=1239s

2020-11-04

●人の脳をクラッキングしてその思考を破壊するウィルスとして、陰謀論歴史修正主義とでは、どちらがより厄介なのだろう。大統領選挙にかんする情報を追っていて、有名なQアノン以上にヤバい陰謀論に突き当たってしまって、頭を抱えている(怖すぎるので具体的には書かないが)。これはアメリカの問題ということではない。検索したら日本語のサイトや動画もヒットした。オカルト的陰謀論は、多くの場合、最新の学説や科学技術(科学技術の中途半端で間違った理解)と結びついている。陰謀論者の暗躍を、陰謀論的に妄想してしまう。

(陰謀論は、誰もが感染し得る危険なウィルスであって、陰謀論者をただ悪として非難すればよいというものではないと思う。)

(現実的には複雑な問題に簡潔な解答を与えてくれるので、不安な人がそれにとびついてしまう、というような陰謀論についての説明は十分とは思えない。常識的な理解---表---とは異なる隠された秘密---裏---があること、そして、それを知っているのが迫害された少数者であること。そして、その理路に独特のオカルト的平板さがある---現実的な厚みが失われている---こと。そのような形の物語がもつ、抗いがたい引力があるように思われる。)

(陰謀論に感染してしまう人と、感染を意図的に拡大させることで利得を得ようとする人とは---悪の度合いとして---分けて考える必要がある。)

陰謀論は、現状に対する危機意識をもつ人が、ほんらいならノイズとして処理すべき小さな揺らぎを徴候のように拾ってしまい、そこに過剰な意味を見いだすことから始まるように思う。そして、小さな疑惑が、一つの世界観=体系を要請し、発展して、そのまま固着化してしまうのではないか。故に、繊細なアーティストのような人こそが陰謀論に弱かったりするだろう。陰謀論へのセキュリティとしては、できるだけ広く、多角的に情報を収集するということくらいしか思いつかない。しかし、陰謀論が「最新の情報の中途半端な理解」によって組み立てられていることが多いことを考えると、そして、陰謀論の否定が、「常識的に考えておかしいでしょう」ということ以上のところでは、悪魔の証明のように困難になってしまうことも考えると(ファクトチェックのファクトチェックのファクトチェック…、と懐疑は原理的にはどこまでもつづく)、常にアンテナをはり、常識にとらわれずに自分の頭で考える人だからといって、陰謀論を避けられるとは限らない。

(むしろ、「そんなこと常識的にありえない」といって、それ以上の情報収集も思考も打ち切ってしまうような、凡庸で常識的な人こそが、陰謀論に強いのかもしれない。)

陰謀論に対する有効なワクチンはありえるのか。一つの方法として、陰謀論の意識的な摂取によって免疫をつけるということを考えることができるのではないか。陰謀論が、人の脳にとって、障壁を乗り越えて侵入してくる抑えがたく魅力的なものなのだとしたら、日常的に、頻繁に、陰謀論的なフィクションを娯楽として摂取することで、陰謀論独特の「ヤバめ香り」を味わい、それを鋭敏に察知できるようになり、陰謀論にガチで入り込むことなく、あくまで距離をとって警戒しつつ、(フィクションとして)楽しむことができるようになる、とか。

それでも、ミイラ取りがミイラになることはあり得るが。

(陰謀論者においては、おそらく常識的な現実の基盤への信頼が崩れているので、そこに常識、論理、ファクトのようなものをあてても効かないのではないか。)

2020-11-03

●たとえ負けたとしても負けを決して認めず、相手が不正をしたせいだと言い張れば、少なくとも味方に対する面目は保たれる。たとえ何の根拠もないデタラメであっても、強い口調、強い言葉で語り、間違いを指摘されても揺らぐことなく、飽くことなく堂々と言い続けていれば、それを信じてしまう人が一定数いる。あるいは、信じるまではいかないとしても、でまかせを発し続けることで、何が事実なのかわからない混乱状態を作り出し、どうせほんとうのところなど分からないのだし、それぞれの人が自分の信じたいものを勝手に信じているに過ぎないという冷笑的な態度へと人を誘う。これらのことは現実の軽視であり、もっと正確に言えば「現実(リアル)があるという信頼」の破壊だろう。

(「現実があるという信頼」には実はしっかりとした根拠がないので---「現実」は根拠のない「信」によって支えられているので---それは割と容易に失われる。「現実があるという信頼」によって可能になる最大のものは「間違えることができる」ということだと思う。すべては等しく「虚」であるとしたら、何をやっても、何を言っても、間違えることができない。間違えることが出来なければ、軌道修正することもできない。)

このような状態で可能になる、ある特殊な「現実主義」というものが考えられる。ここで言う「現実主義」とは、「現実があるという信頼」を破壊することで、「現実は変えられる(間違いを正すことが出来る)」という希望を消失させ、ただ、自分の都合のいいように他人を誘導し、従わせることを通じて自分が得ることのできる利益の有無だけを「現実(2)」と言い張るような主張のことだ。これはいわば汎政治主義とも言えるもので、ここでは(あらゆるものが等しく「虚」であるなかで)政治的な権力の増大を賭けた権力闘争のみが「現実(2)」ということになる。「現実主義」においては、権力の増大が正しさであり、縮小が間違いとなるだろう。

(故に、上のような意味の「現実主義者」になれば、「現実があるという信頼」を失っても、「現実(2)は変えられる(間違いを正すことが出来る)」という希望---その希望は、権力の増大という「利己的な欲望」に変換されているのだが---をもつことができる。)

とはいえ、このようなやり方で実際に自己の権力の増大を実現できるのは、ごく限られた一部の人のみだろう。ほとんどの現実主義者は、権力闘争に負けつづけることで、勝者の養分となる。だが、そうであったとしても、「現実」に追い詰められ、「現実」に痛い目を見させられつづけた人にとって、「現実があるという信頼」を破壊することを通じて権力の増大を実現させている人を見ること、そのような人へ共感(同一化)することは、強い快楽を伴うであろうことは容易に想像される。というか、勝者になれない場合は、勝者への同一化を通じた快楽以外に、欲望を満足させる方法がない(破壊によって権力の増大を得る者への同一化により、破壊そのものが快楽となる)。一方、「現実があるという信頼」を擁護する立場にあってもなお勝者であり得る人(既得権に守られたエリート)に対しては、強い憎悪をもつだろう。故に、前者が後者を踏みにじるような言動に対して、拍手喝采を送ることになるだろう。それはとても気持ちのよいことだろう(だから止めるのは難しい)。

このような「現実主義」的な「現実(2)」が問題なのは、ここで権力闘争をするアクターとして想定されているのが「人間」に限られているということだろう。人間さえ操作できれば、現実(2)を操作できると考えられているからだ。しかし、(もし本当に現実があるとしたら)「現実」を構成しているアクターは人間だけではないはずなので、このような人物たちによって構成される世界では、人間以外のアクターから負わされるツケがひたすら増大し、人々は常にそれを支払わされつづけることになるだろう。そして、(これも、もし本当に現実があるとしたら、だが)「現実」からのツケがごまかしようのないくらいに蓄積することで、「現実主義」はいつかは破綻する、はず。

しかし、「現実主義」の破綻は、人類の破綻と同時に起るのかもしれない。

2020-11-02

マルクス・ガブリエルの自然主義への否定は大胆なもので、たとえば彼は、物理法則を「神話」だと言っている。『全体主義の克服』(マルクス・ガブリエル・中島隆博)より。

《物理学者は、過去一四〇億年、同じ自然法則が宇宙を支配してきたと仮定しています。でもそれは単なる仮説にすぎません。この仮説がどこから導かれるのか、誰も教えてくれません。それは結局、構築的な神話のレベルにあるものにすぎないのです。

これはわたしの学生であったトム・クレルのアイデアですが、神話には、支配的な神話と構築的な神話という区別を設けることができます。

支配的な神話とは、わたしたちが「神話」として知っているありふれた物語です。神や英雄の物語、現代ならばスパイダーマンは、お決まりの支配的神話ですね。

それに対して構築的な神話は、物事のあり方やある集団にとっての確実性がどうなっているのかを明らかにするものです。宇宙はあまねく自然法則に支配されているというのも、その意味で構築的な神話です。それは物理学者にとっては確実性をもっていますが、誰にとっても確実なわけではありません。》

●勿論、「自然主義の否定」とは、自然科学を否定しているのではなく、自然科学がこの世界を解明する唯一の絶対的な方法だということの否定で、そうではなく、自然科学はあくまで「ある限定」のなかで意味をもつものだということを言っている(「世界は存在しない」ということは、世界全体をカバーする統一的な原理は存在しないということだから、自然科学もまた、そういうものではない、と)。

ここで「構築的な神話」という概念が面白い。マルクス・ガブリエルの存在論によると、現実=実在は「無底」であって、根拠がない。《この事実が存在するという事実---その事実性---にそれ以上の根拠はないのです》。しかし、ある事実が存在する(ある「図」がたちあがる)という時、その効果として、ある背景(地・底・文脈)もまた、それと同時に、自ずと想定されることになる。実在(図)と文脈(地)は不可分である。どんな実在(図)も、ある特定の意味の場(地)のなかでたちあがると、マルクス・ガブリエルも言っている。しかし、実在が無底で根拠がないとすれば、意味の場は実在の背景ではあっても根拠ではなく、図と同時に発生する、図と同等のものだと考えられる。文脈が先にあって、そこに実在(意味)が生じるのではなく、文脈と実在とは同時に生じ、そのどちらにも根拠はない、ということになるはず。

とはいえ、図があり、その背景として地があるという場合、我々にはどうしても、図の根拠として地があるように感じられ、地こそが世界の生地であるかのように感じられる。そして、このような感じ方こそが、「現実は存在する」という信頼を人に抱かせるメカニズムの深いところで作用しているように思われる。だから、マルクス・ガブリエルの言う「構築的な神話」とは、「現実が実在するという信頼(現実への「信」)」を成り立たせるものとして作用するものだ、ということになるだろう。我々が「現実を信じる」ために必要なものとして、構築的な神話がある、ということなのだろう。そしてこれが「構築的」なものである以上、作り替えることもできるはず、と。

マルクス・ガブリエルは、自分の考え方に近い自然科学者として、統合情報理論のトノーニを挙げている。トノーニは、外からの計測と計算によって定量的に意識の有無を判定できると考える人で、一見すごく自然科学主義みたいにみえるのでちょっと意外で面白いのだけど。

《わたしの考え方に最も近い自然科学者は、ウィスコンシン大学マディソン校の神経学者、ジュリオ・トノーニです。彼は立派な学者です。アレン脳科学研究所の所長と主任学者を務めているドイツ人の神経科学者クリストフ・コッホと一緒に、「意識の統合情報理論」という新しい意識モデルを開発しました。これは本当に卓越した仕事だと言わなければなりません。

トノーニとわたしは、チリ政府とともに南極近くまで一緒に旅をしながら、多くの議論をしました。トノーニはわたしの議論すべてを完全に理解しています。わたしの経験では、最も優秀な物理学者は、哲学に関心がなく反対も賛成もしませんが、話せばすぐ理解してくれます。》

トノーニについての過去の日記。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20150910

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20150913