2021-09-08

●小説の原稿の校正。ここまでこぎ着ければ掲載されるでしょう。来月発売予定の雑誌に載るはず。小説を発表できるのは8年ぶりか9年ぶりくらい。前に発表した四つの短編群のつづき(というか、それぞれ自律しているがシリーズとして同じ)で、今回も原稿用紙換算で三十数枚の短いものです。

この小説には「ペル」という固有名を刻みたかった。子供の頃に家で飼っていた犬だが、記憶は茫洋としている。ただ、ペルがいなくなった(死んだ)ときにすごく悲しかったというのが、最も古い記憶の一つで、生まれて初めて感じた強い悲しみだったかもしれない(悲しみというより「理不尽だ」という感情に近かったと思う)。

そのペルのこと(ベルを失った悲しみのことではない)と、昔から近所にあって、長い間荒れ果てたまま放置されていた、古くて立派な日本家屋のある広い敷地(子供の頃はちゃんと人が住んでいたはずだが、いつの間にか荒れ果てていて、いつから荒れ果てたのか憶えていない)が、ある日とつぜん更地になっていた、ということについて書いた(「ついて」というか、それらがモチーフとなった)。気持ちをできる限り素直に表現しようとした結果として、まったく素直ではない形式の小説になっています。

2021-09-07

●『ロル・V・シュタインの歓喜』についてのテキスト(『現実的なものの歓待』第2章)で春木奈美子は、語り手であるジャック・ホールドのロルに対する欲望に「治療者の欲望」を見出し、それは「共感的理解の逆接的不寛容」であり、その治療は「表象空間に人間の生を閉じこめる」ことになると批判的に書いている。実際、小説を読むと、終盤のジャックとロルによるT・ビーチへの再訪とその夜の二人の接触からは、かなり強く「治療」めいたニュアンスが感じられるし、二人が結ばれた翌朝、《彼女はマイケル・リチャードソンについて、彼女の気の向くことについて私になんでも言える》ようになっていると書かれるロルは、あたかもトラウマを克服して治癒したかのようだ。そして小説の最後の場面、森のホテルの裏のライ麦畑でロルは、もはやホテルの部屋でのジャックとタチアナの逢瀬を見守る必要などなくなったかのように眠っている。

無理矢理に小説の終わりとして据わりのよいオチをつけたかのようなこのラストが、この小説の最も弱い部分であるようにみえる。「ジャックによって触れられるタチアナの肉体」の位置の自分の存在(と存在の欠如)を見出すことで「自分」を確保していたロルは、(タチアナに触れる者であるはずの)ジャックから触れられることで、《自分をタチアナ・カルルとロル・V・シュタインという二つの名前で呼ぶ》という錯乱=歓喜を迎える。その錯乱の後に、そんなに穏やかな「正気」に着地できる(治療が完了する)とは考えにくく、ロル(でありタチアナでもある「存在」)は、さらに深い混乱と困難に直面するのではないかと思われる。だから、このラストに現れているのは「話者」としてのジャックの欲望であり、このラストのあり方はロルという存在を、了解可能な意味・因果にどじ込めていると言える。逆にいえば、ジッャクという話者によってでは、このようにしか物語は語れないということだろう。

この物語はジャック・ホールドによって語られ、ジッャクの欲望に従って組み立てられている。ロルが、「ジャックとタチアナの肉体関係」をその外側から見ることによって「ロル自身の存在(の欠如)」を到来させるのと同様に、ジャックもまた、「ロルと(語られる「彼」である)ジャック自身との愛の関係」を、その外側から(語る「私」として)見ている(下図)。

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どちらも、自分(の分身)と自分の欲望の対象との関係を、その関係の外に立って見ているという点で相似的であり、対称的であろう(自分が、見られる・語られる=オブジェクトレベルと、見る・語る=メタレベルのどちらにも存在する)。だが、ロルが、ジャックとタチアナ(=ロル)との関係に見出しているものと、ジャック(私)が、ロルとジッャク(彼)との関係(を語ること)に見出しているものは異なっている。

春木奈美子は、ジッャクは「欲望しうる対象を欲望する主体」であるのに対して、ロルは「欲望しえない対象---存在そのもの---を欲望する主体」であるとする。ジャックは、ホテルの窓から見た「ロルの姿」によってもたらされた不安を、《ロルもまたこちらを見ているはずだ》と思うこと(「ロルからの視線」へと還元すること)で解消する。名前のない不安にロルと名付けること(意味の体系のうちに位置づけること)によって蓋をして、意味に結びつけられたロルを欲望する。ここでジャックはラカンが「宮廷愛」と名付ける愛の形式を生きる。ジャックは、「無理難題を課してくる非人称的で、共感不可能な女」=貴婦人としてロルを対象化する。この時、ロルは、不条理(無意味・存在の欠如)のいっさいを引き受けてくれる謎として存在し、謎は、不条理を表現すると同時にそれを隠蔽する。ジャックは、ロルという謎を欲望し、謎に奉仕している限り、不条理(存在の欠如)と直面するのを避けることができる。

ジャックは、治療者としてロルという謎を解こう(治療しよう)とする。謎を解くとは、ロルという存在を意味の体系のうちに再構成するということであり、そのような欲望のなかでこの物語(ジッャクとロルの愛の関係)が組み立てられる(ジャックは語り手となる)。

対して、ロルが「ジッャクとタチアナの関係」に見いだしているのは、謎でもその解決でもない。ロル→「ジッャク→タチアナ」という構造が表現するのは、「ロルの存在(の欠如)」という事実そのものであって、その意味や隠喩ではない。構造と事実とは、謎とその解読(=意味)によって結びついているのではなく「直接的」に繋がっている(おそらくこれはラカンが「結び目」と言っているものだ)。ロル→「ジャック→タチアナ」という構造は、ロル→「マイケル→アンヌ=マリ」という出来事と直接的に響き合うことでそれを表現し、それをやり直す。そしておそらく、ロル→「マイケル→アンヌ=マリ」という出来事もまたオリジナルな出来事ではなく、別の出来事の反復として、それと直接的に響き合うものとして到来したのだろう(少なくともタチアナはそのように感じている)。

つまり、ロルは「意味」の次元で生きてはいない。ジャックから「何を望んでいるのか」と問われたロルは、「ただ望むの」と答える。このやりとりは「意味」としては成立していない(意味がない)。ロルは意味を望んでいるのではなく、唐突に「それ」と響き合ってしまう(未だ到来していない、あるいは決して到来することのない)未知の何かを、その具体像を全くもつことないまま、ただ望んでいるのだろう。

しかし、このようなロルのありようを、ロル自身の存在の形式に従って、その内側から「語る」ことは困難だ。それはほとんど支離滅裂なものにしかならないだろう。だからこの物語には、登場人物たちの関係に偶発的に巻き込まれたに過ぎない存在である、ジャックという(凡庸な欲望を持つ)語り手が必要だったのではないか(ジャックはたまたまタチアナの愛人であったことで、ロルによる「愛の関係」に巻き込まれる)。作家自身が狂気に陥ってしまわないためにも。しかしこの「ジャックの語り」として組み立てられた小説には、ジャックの視点に還元出来ないものが確かに含まれている。

2021-09-06

●『ロル・V・シュタインの歓喜』(マルグリット・デュラス)という小説の全体としての形は、下の図のようになっていると言えるだろう。ロルが、ジャックによって服を脱がされ裸にされたタチアナの肉体の位置に、自分の存在を確保する場所を見出す。ロルは、空である自身の存在を、ジャックによって見られ、触れられたタチアナという、自分の外側に見出すことで自分を保つ。だが、小説の最後でジャックと結ばれることで、ロルは、ロルでもありタチアナでもある者とならざるを得ず、錯乱(歓喜)する。

そして、そのようなロルを(ロルの物語を)、その外側からジャックが語っている。ここで、ジャックがロルについて語ることになる(ジャックがロルに強く惹かれることになる)起点としてあることがらが、ジャックが、タチアナと密会するホテルの窓から、ホテルの裏にあるライ麦畑に横たわるロルを目撃したという出来事だ。ジャックは、ロルから見られているのを、見る(逆向きの赤い矢印)。その時にジャックはロルという存在に把捉され、彼女を愛し、彼女について語らざるを得なくなる。

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上の図では、一方的に見られ、触れられ、利用されるだけに見えるタチアナだが、そもそもこの物語の発端となるT・ビーチでの出来事を(その時のロルを)見ているのはタチアナだけである。T・ビーチで、ロルが、マイケルによって裸にされたアンヌ=マリの肉体の位置に、自分の存在するための場所を見出すことに失敗した(見出し損なった)、という出来事が、ロルを狂気に追い込み、後のそれをジッャクとの関係において反復させる。そしてこの起源ともいえる出来事を語ることができるのは、その時、ロルの傍らにいて、ずっと彼女の手を擦っていたというタチアナだけなのだ(下の図)。

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タチアナの視点を取り入れ、上の二つ図を合成すると、下のような図になるだろう。小説の語り手はジャックだが、この物語はジャックのみでは語り得ず、(T海岸の場面に限らず)タチアナの視点が必須であり、タチアナの視点は潜在的に常に利いていると考えるべきだろう。一見タチアナは、何も知らされないまま、ロルとジャックのための疑似餌として利用されるだけのようにも感じられるが、(ジャックがタチアナから聞いた話として、ジャックの視点に還元することのできない)タチアナ視点の独自性が随所で機能している。ジャックが、語る者(私)であると同時に語られる者(彼)であるのと同様に、タチアナは、ロル(ロル+ジャック)から見られる者であると同時に、ロルを見る者でもある。

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(この物語の起点が、物語を構成する三つの視点にとって三者三葉なのが興味ぶかい。ロルにとっては、T・ビーチの出来事が物語のはじまりだが、ジッャクにとっては、ホテルの窓からロルを見つけた場面こそが物語のはじまりであり、それ以前の物語は遡行的に補完されたものだ。そして、タチアナが言うには、ロルの狂気の起源はT・ビーチの事件では決してなく、それより前、学生時代から既に予兆はあったとされる。)

(ロルはすべての人に見られている。T・ビーチの事件はS・タラでもT・ビーチでも知られているし、ロルがその事件の被害者(?)であることも、みんなが知っている。だから、ロルが匿名的存在としてSタラを散歩したり、T・ビーチに再来したりしても、みんな彼女を見ているし、彼女がロルであることを知っている。自分が誰なのかわからないのは、彼女自身だけだとも言える。)

2021-09-05

●『現実的なものの歓待』(春木奈美子)に書かれているデュラス『ロル・V・シュタインの歓喜』の分析がとてもおもしろい。以下、同書の第2章「女たちの余白に」第1節「デュラスの描くふたりの女」から引用。

(「苦悩」を表象---意味や理解可能な因果---に閉じこめてしまうような態度を「共感的理解の逆接的不寛容」と呼ぶなど、まさに「精神分析的な文体」だ、と思いながら読んだ。)

《ロルの最初の「事件」を「原因」と見立て、その後の展開を必然的な「結果」とみるホールドは、心的因果性の構築を目論む治療者の欲望を表している。必然性を症状や狂気の説明原理として取り込もうとする試みは、必然性によって偶然性を囲い込むこと、すなわち不可解な〈他者〉性の排除に他ならない。このように治療者側の持ち前の論理に従う「治療」は、言語との出会いで生じた「疎外」の事実に立ち向かわせることはなく、治療者の知によって患者の起源の事実への書き込みを行うことになる。それは、意味に回収されえない領域を無きものとして「いまここでの」表象空間に人間を閉じこめることを意味する。そうした理解のうちにすべてを回収するような行為は、治療とは言えない。こうしたアプローチがいう「語り」とは、いわば余白を許さない社会的ディスクールであり、まさにそのような不寛容なディスクールの余白に、精神分析ディスクールは位置する。それは共感的理解の逆接的不寛容によっては、もはや支えられない主体へ、いわば「到達せぬ苦悩」を抱く主体へと宛てられている。》

《「到達せぬ苦悩」とは、決して不可知論やイデアリズムに肩入れするための文句ではない。存在に必然性を与えてくれるように幻想させる言語との関係の残余として、言語を超えようとする欲望があり、失敗を繰り返しながらも、そのような欲望をあきらめない、そのような態度を言うのである。「到達する」と言うなら、言語を超えようとする欲望が言語そのものに導かれていることになり、また本人にとって「苦悩」でないのなら、その時点ですでに幻想に荷担していると言えよう。意味が常に存在を構成するのではない。存在は、時に意味に先行し、時に意味に後続する。この意味で、わたしたちは、意味とは一致せず、むしろその不一致に留まる限りでの、言い換えれば、己のなかの〈他者〉へと無限にさらされている限りでの、存在であると言える。現前する他者との共有ではなく、己に内在する〈他者〉との分有のうちにある意味は、常に捉えきれない不確実性に留まる。この欠如は、否定的なものに聞こえるかもしれないが、人間の本質とも言えるだろう。》

精神分析的なディスクールで「言語」と言うとき、それはふつうに言語という語がもつより意味が広くて、可変的(代替可能)な記号・表象・意味が成立するためにその背後で働いているシステム、というくらいの意味にとった方がいいと思われる。道具を使う動物は人間以外にもいるが、道具をつくるための道具を使うのは人間だけだ、同様に、言語的なコミュニケーションを行う動物は人間以外にもいるが、言語についての言語(再帰的なメタ言語)を使えるのは人間だけだ、と酒井邦嘉が言っているが、そのような可変的で再帰的な記号を使えること(たとえば、同じ映像がモンタージュによって異なる意味になる、置かれた伏線の意味がその後の展開によって変化する、というような「操作」が可能であること)、そのようなシステムの内に置かれてあることが「言語」と呼ばれているのだと思われる。

(以前は、象徴界は言語で、想像界はイメージだ、みたいに説明されることが多かったが、今では、象徴界は構造で、想像界は意味だ、と説明されることが多いようだ。精神分析で言う「言語」は、意味を成立させている---ファルス関数的な---構造、という感じだと思われる。)

2021-09-04

Aphex Twinの「Nanou 2」という曲とは奇妙な出会い方をしていて(厳密には出会いではなく、再会であり、再-出会いなのだが)、その事情は2018年5月5日のこの日記に書いた(この日が、再-出会いの日だ)。

偽日記 2018-05-05

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20180505

で、この日以降も、というか、この日以来ますます、この曲が頭のなかで響くことが多くある。頭のなかで完璧に再現できているというわけではないが、この曲っぽい響きというか、この曲の響きの「印象」のようなものが、頭のなかに突然ふわっと現われるということが、割とある。

かといって、Aphex Twinのファンになるわけでも、「Drukqs」という、この曲が収録されたアルバムの他の曲を聴き込んだりすることもなく(というか、このアルバムを通して聴いたことすらない)、ただ「この曲」にのみ執着があるようだ。

「Nanou 2」という曲は、Aphex Twinのなかで特に有名曲というわけでもないようだが(Aphex Twinについて詳しくないのでそこもよく分かっていないが)、この曲を、ハープを用いて演奏している動画をたまたま見つけたので、このような日記を書いた。2001年に発表された曲だが、ハープ演奏の動画は、今年投稿されたものだった(Tamara Youngさんには下の動画以外にもAphex Twinのカヴァー動画がある)。

Aphex Twin- Nanou 2

https://www.youtube.com/watch?v=3uhTwxqE4Co

Aphex Twin - Nanou2 - Harp cover by Tamara Young

《Been overwhelmed by the response I have been getting from my little videos and have been wanting to cover this for a while and had a few request so gave it a go. I tried to do the best version I could suitable for the harp . Main issues were with all the bass notes rattling and also cutting through, this piece really uses opposite ends of the spectrum! and trying to keep the resonance without making massive noises dampening.... no sustain pedal built on the harp unfortunately ! I hope the beautiful simplicity of this piece still comes through though :)》

https://www.youtube.com/watch?v=RuC2kYMVLI4

●下の動画も、今年投稿されたもの。こういうのをつくってもらえると、曲の構造が分かって楽しい。

Nanou2 midi piano tutorial

《made with piano from above, couldn't find it anywhere so went to the effort of posting myself.enjoy》

https://www.youtube.com/watch?v=4F2vZCy4BaM

2021-09-03

●お知らせ。VECTIONによる「苦痛トークン」についてのエッセイの第五回をアップしました。苦痛トークンは、《勇気を必要とせずに、嫌なものはイヤだと客観的に伝える》匿名化された仕組みであり、組織によってある生産物が生産される過程で、その組織のメンバーに生じた苦痛の総量を示す指標となります(同じクオリティの生産物であっても苦痛量の少ない方が優れた生産物と言えるし、たとえクオリティが高く安価であったとしても、苦痛量の多い生産物は優れた物とは言えなくなる)。

これだけでも、苦痛量の変化(推移)からパワハラなどの発生を察知するための徴候となり得るでしょう。しかしそれだけでなく、苦痛の正確なトレースを通じて「人の意思(政治)」を介すことのない自動化された組織構造の変化を実現する、というアイデアを含むものです(人にはできるだけ人事権という権力を与えたくないと考えます)。苦痛トークンは、ブロックチェーンという新たな技術によってはじめてその可能性について考えられるようになるものです。

(目標や理念、思想の良し悪しではなく、目標や理念や組織の維持のためにメンバーに強い苦痛を強いる組織やそのあり方を「悪」と考える。)

《パブリックなブロックチェーンを使っているので、トレース結果は外部から参照できる。排出ガスのようなイメージで、組織が活動によって産出した苦痛トークンの総量がわかることになる。これにより、ブラック企業などのガバナンスの不透明性を打ち消すよう試みる。なお、組織がトレース結果を公表しない場合、なぜ公表しないのか、という公衆からの疑問に対峙する必要がでてくるだろう。》

苦痛のトレーサビリティで組織を改善する5: 苦痛トークンによる組織の変化(DAO+苦痛トークン)

https://spotlight.soy/detail?article_id=os1aza2qi

Changing the Organization through Pain Tokens (DAO + Pain Tokens) / Implementing Pain Tracing Blockchain into Organizations (5)

https://vection.medium.com/changing-the-organization-through-pain-tokens-dao-pain-tokens-868ea7b5e748

●(昨日からつづく)ビオイ=カサーレス「パウリーナの思い出に」では、ある男(モンテーロ)の嫉妬からくる強い妄想が別の人物(主人公)にまで作用を及ぼす(『流れよ我が涙、と警官は言った』と同様に)。「わたし」の妄想が他者にまで作用し、主人公がモンテーロの妄想世界に引き込まれ、その妄想の一部分となる。だがそれは、主人公が、モンテーロを通して(モンテーロという鏡に映った)パウリーナを見ることではじめて、パウリーナの別の側面を見ることが出来て、自分が見ていたパウリーナが、自分という鏡に映ったパウリーナであったことを自覚する、ということでもある。

主人公は、《ぼくは自分がパウリーナの不鮮明で粗雑な写し》のようなものであり《パウリーナと似ていることで自分は救われている》と考える。自分の方がパウリーナのコピーであり鏡像であって、自身の内に投影されるパウリーナの像によって自分が高められるのだ、と。しかし、彼女を映し出す鏡(自分)は決して透明でフラットな存在ではなく、偏向があり、鏡にはあらかじめ歪みがある。あるいは、パウリーナ自身が、自らを映している鏡の偏向にあわせた像だけを鏡(主人公)に投げかけていた。というか、互いに互いを映しあう鏡像的な関係にある時、互いにどちらも自分の像を表している鏡(二人称的対象)の偏向や歪みを自覚できない。おそらくパウリーナ自身も、モンテーロという「別の鏡」に出会うことではじめて、自身の別の側面に気づいたのだろう。

主人公から見たモンテーロは、《はじめての訪問にもかかわらず、こちらが時間を割いてでも読むべき作品だと言わんばかりに、分厚い原稿とともに熱弁を振る》うなど押しが強く、一方で《自分の殻に閉じこもり、相手の気持ちを察することができない》ような人物とされる。また、パウリーナは《あの人、とても嫉妬深くてね》と言う。対して、その語りから主人公は冷静で穏やかな人物のようだ。パウリーナを失った失意のなかでも取り乱したりはせず、留学をすることでひとまずは「この地」を離れようという適切な判断ができる。

主人公が留学から戻ると、不意にパウリーナが部屋を訪れ、二人は結ばれる。しかしその時、主人公は彼女の様子に違和感を覚える。

《そんな高揚感の中でも、ぼくはパウリーナの言葉にモンテーロのくせがうつっていることを感じずにはいられなかった。モンテーロっぽい回りくどい言い方、正確に言おうとして、ただいじくりまわしたいだけの表現、思い出すのも恥ずかしくなるほどのひどい低俗さ。彼女が口を開くたびに恋敵の言葉を聞いているようだった。》

《パウリーナが鏡にうつっている。鏡には花飾りや王冠や黒い天使をあしらった縁どりがあり、ほの暗い水銀の鏡面を見つめていると、パウリーナの姿がいつもと違っている気がした。それまでとは異なる目で見たことで、彼女の知らなかった一面を発見したと思った。》

《「もう行くわ。遅くなるとフリオがうるさいし」

その声には軽蔑と不安がこめられていた。パウリーナの言葉とは思えず、とまどいをおぼえる。ぼくの知っているパウリーナは誰かを裏切る人間ではなかったので、暗い気持ちになる。》

この違和感は、この時のパウリーナが「モンテーロの妄想がつくりあげたパウリーナ」であり、パウリーナ本人(パウリーナの魂そのもの)ではなかったことによって、一応は説明がつく。しかし主人公は必ずしもそうだとは考えない。モンテーロの妄想の「鏡」に映されたものとはいえ、それは《彼女の知らなかった一面》でもあるのだ。主人公は、《ぼくがモンテーロを介して知りえたパウリーナの一面を、あの男は実際に見ていたことになる》と考える。別の鏡に映ったパウリーナが、知っていたのとは別の側面を語っている。

主人公はパウリーナとの再会を思い出しながら、《たとえパウリーナの態度にいつもと違う冷たさがあり違和感をおぼえたとしても、その顔はあいかわらず美し》く、《顔は魂にはない誠実さを持っているのか》と考える。しかしすぐその後に《ぼくは自分の好みをパウリーナに投影して、それを愛していただけで、実は本当のパウリーナを知らないのではないか》と懐疑的になる。このような懐疑は、モンテーロという存在(別の鏡)によってはじめて主人公にもたらされるものだろう。

モンテーロは、ネガティブな意味での典型的な「文学青年」であるかのように描かれている。そして、彼が書いているのは次のような小説だ。

《あるメロディはバイオリンと演奏者の動きが結びついて生まれる。同じように、物質と運動が決まった形で結びつけば、人間の魂が生まれるのではないか。小説の主人公は、魂を生み出す装置(木枠と紐を組みあわせたようなもの)を作っている。やがて主人公は死ぬ。遺体は通夜のあとで埋葬されるが、彼の魂は装置の中でひそかに生きつづける。作品の最後で、ひとりの若い女性の死が語られる。彼女の死んだ部屋には、ステレオスコープと方鉛鉱をとりつけた三脚とともに、その装置が置かれていた。》

鉱石ラジオに使われる方鉛鉱と、視差により幻の立体感を生み出すステレオスコープは、ただ保存されるだけで表現をもたない魂と交信するための装置なのだろう。モンテーロは、死者の魂を保存する装置についての小説を書いているのだが、その装置には魂が自らの存在を表現するための仕組みがない。魂は、ステレオスコープと方鉛鉱を用いて覗き込まなければ(覗き込もうとする女性が存在しなければ)、ただそれ自身として自足してあるだけで、自ら現れることはない。同様に、パウリーナの魂も、自らの力によって現れたのではなく、モンテーロの嫉妬という強く歪んだ妄執を媒介としなければ現れることがなかった。

逆に言えば、妄執こそが歪んだ形だとしても死者を蘇らせる。現実には、主人公とパウリーナは結ばれることはなかった。だからモンテーロの妄想は事実ではない。しかし嫉妬に駆られたモンテーロにとってその妄想は事実以上にリアルな「現実」としてあったし、ありつづけるだろう。その強い「妄想=現実」が、(パウリーナを犠牲するだけでは飽きたらず)主人公の現実をも巻き込んでしまう。だがここで主人公は、モンテーロの妄想に引き込まれながらも、その妄想にとらわれるのではなく、そこから知りたくもない「現実」を認識させられることになる。主人はどこまでも理知的に思索する人であり、《いつも別の視点を用意しておこうと頭を働かせるくせがあるので---昨夜パウリーナがあらわれたことについて、ほかの解釈はできないだろうかと考える》ことによって、《パウリーナは死の世界からもどってきてくれた》という幸福な誤解を思考が打ち砕いてしまう。まさに《モンテーロは自分の幻想とともに苦しんだが、ぼくは拷問のような現実を受け入れなければならない》のだ。主人公とモンテーロとは、どこまでも対比的であり対照的である。

 

2021-09-02

アドルフォ・ビオイ=カサーレス「パウリーナの思い出に」。前に読んだのは『ダブル/ダブル』というアンソロジーに収録されていた菅原克也・訳のものだったが、今回読んだのは、短編集『パウリーナの思い出に』に収録されている高岡麻衣、野村竜仁・訳のもの。この短編小説もまた(ボルヘスのいくつかの小説と同様)、数式のように完璧に組み上げられたもので、これについて語るためにはその前に概要を示す必要があるだろう。つまり、ネタバレなしではこの小説について語れない。

●まず、自分の頭の整理のためにこの短編の概要をまとめる(以下、ネタバレ)。主人公の作家(男性)には、幼い頃からずっと一緒に過ごす、互いに完全に理解し合えていると感じる女性(パウリーナ)がいる。自分は彼女の粗雑な写しであり、彼女の鏡であることによって自分の至らなさが救われる、とさえ思っている。彼女との結婚は当然と感じているが、幼い頃からずっと一緒だったために恋人のように振る舞うことは照れくさくてできないままだ。主人公は、意欲的だが粗野でどこかいけ好かない作家志望の男(モンテーロ)と知り合う。男を自宅に招いた時、男とパウリーナが親しげに話しているのを苦々しく思う。

次にパウリーナに会った時、いつもと様子が違うと感じ、それを告げると「私たちは話さなくても気持ちが通じるのね」と言われる。だがその言葉の意味は、あの日以来、パウリーナとモンテーロは激しく惹かれ会っているということだった。主人公は、生まれて初めてパウリーナを遠く感じ、自分と(あんな男に惹かれる)彼女とはそもそも似てなどいなかったのではないかと疑う。失意の主人公は、留学していったん故郷を離れることにする。出発の前夜、大雨のなかパウリーナが(嫉妬深い)モンテーロに内緒で会いに来てくれる。

二年間の留学から帰る。コーヒーを飲みながら、午後の遅い時間にパウりーナとよくコーヒーを飲んだものだったと穏やかに思い出し、そこではじめて彼女を失った痛みを実感する。ノックの音で扉を開くとパウリーナがいる。彼女は、かつてのあやまちを実際の行為で改めるかのように主人公を導き、二人ははじめて結ばれる(外から雨音が聞こえている)。主人公は幸福な高揚感に包まれるが、パウリーナの言葉にモンテーロの癖がうつっているのを感じ、鏡に映る彼女の姿に違和感を覚えもする。別れ際の言葉も彼女らしくない。彼女を追って外に出るが姿はなく、雨が降った形跡もない。

主人公は、これまで自分が見ていたパウリーナは幻に過ぎず、自分の好みを彼女に投影していただけではないかと疑いながら、鏡に映った彼女への違和感について考えるうち、そこにあるはずのないもの(留学前に彼女にプレゼントした馬の像)が映っていたことに思い至る。

パウリーナの様子が変だったことが気になって、友人にモンテーロと彼女について訪ねると、なんと、主人公が留学のために出発したその日に、パウリーナはモンテーロに殺されていた。モンテーロは、パウリーナが留学前日に自分に内緒で主人公に会っていたことで二人の関係を邪推し、嫉妬して彼女を殺害したのだった。パウリーナは殺される時に、モンテーロとの結婚が間違いで、自分との愛こそが真実だったと気づいて、自分に会いに来てくれたのだ、と主人公は思う。しかし、事実はそうではないことに気づいてしまう。

《パウリーナは、ぼくらの不幸な愛の力で墓からよみがえったわけではなかった。パウリーナの亡霊など存在しない。ぼくが抱きしめたのは、恋敵の嫉妬が生んだ、怪物じみた幻影だったのだ。》

《ぼくは刑務所のモンテーロを想像する。あの男は、ぼくとパウリーナが会った場面を、ひたすら考え、嫉妬心に駆られながら、すさまじい執念で思い描いたのだろう。》

《ぼくが鏡の中の自分に気づかなかったのは、モンテーロがきちんと想像しなかったからだ。寝室の様子も正確さを欠いていた。パウリーナのことさえあいまいだった。モンテーロの幻想が生んだパウリーナは、本人とは似ても似つかず、話し方などもまるでモンテーロのようだった。》

モンテーロは自分の幻想とともに苦しんだが、ぼくは拷問のような現実を受け入れなければならない。パウリーナは、自分自身の愛に幻滅して戻ってきたわけではなかった。ぼくは彼女に愛されたことなどなかった。それだけではない。ぼくがモンテーロを介して知りえたパウリーナの一面を、あの男は実際に見ていたことになる。あのとき---二人の魂がむすばれたと思った瞬間---ぼくはパウリーナが求めるままに愛を誓った。しかし彼女の言葉は、ぼくに向けられたものではなかった。あれはモンテーロが何度も聞いていた言葉だった。》

●最後から二番目の引用部分では、主人公にまだモンテーロへの軽蔑を表現する余裕があるが、最後の引用部分では完全に打ちのめされている。