昨日、一昨日くらいから、急に大量の花粉が飛びだしたみたいで、本当に鬱陶しい。
午前中、展覧会のためのいろいろな雑用をこなす。てきぱきと速やかに。直前になって切羽詰まらないとこういう行動ができない自分がなさけない。
午後から少し余裕ができたので、あるHPの日記に触発されて、87年から90年頃の大島弓子作品、具体的には角川書店から出ているASUKAコミックス『秋日子かく語りき』『ダイエット』『つるばらつるばら』『毎日が夏休み』を本棚の奥から引っぱり出してきて読む。当然のように傑作の嵐。涙と感動のうちに時を過ごす。でも、これらがもう10年前のものだとしたら、この人は一体この10年、どれだけの仕事をしたのだろうか。(たしか病気されてたんですよね。)
それにしても大島弓子ってすごく特異な作家だとあらためて思う。例えば、『夏の夜の貘』(「 つるばらつるばら 」に収録)の、表象形式の奇妙さ、というか、ねじれの複雑さ。しかも、こんなにヘンなことをやっているのに、作品がちっとも『前衛的』にも『難解』にもならない。登場人物が実年齢ではなくて精神年齢として表象されるのだけど、その精神年齢の各人物への振り分けの複雑さと配置の的確さは驚くべきもので、この作品の成功の大部分は、その部分に賭けられていると言っても過言ではないと思う。物語として要約してしまうと、全くありふれたものでしかないこの作品をここまで微妙に振動させ、繊細な感情を生ませるのは、この大胆な形式の歪ませ方と、それを複雑で繊細に配置させてゆく能力によるものだろう。この人の頭の中の配線は一体どうなっているのだろう。うらやましいかぎり。
夕方から、アトリエへ。どの作品を画廊へ持って行くのかを、そろそろ選択しなくてはいけない。まあ、だいたいのところを絞り込んでおいて、最終的な決定は、搬入当日、もう急がないと運送屋が来てしまうという時まで粘ってから決め、急いで梱包する、ということになるのだけど。最終的な決定を、ぎりぎりまで延ばすのは、本当は落ち着かなくて嫌なことで、さっさと決めてさっぱりしたいのだけど、ぼくは自分が『詰め』の甘い人間だということをよく知っているので、意識的にここで最後のもう一粘りを自分に要求する、という訳なのだった。
アトリエのある駅のホームの、コーヒーの自動販売機には、もう無くなってしまったと思っていたエスプレッソがまだあった。でもこれももうすぐ無くなってしまうだろうけど。コーヒーを飲みながら、ホームで電車を待つ。夜になるとまだ寒い。