缶コーヒーは飲むと不快になるような味だと分かっているのに、それでもいいからコーヒーが欲しくなってしまうのは、中毒以外のなにものでもない。今朝飲んだ、ポスのブラックは割合まともだった。
陸上競技場の赤い土と枯れた黄土色の芝生。砲丸投げハンマー投げのためのサークルのなかに初めて入ってみる。思ったよりも小さな輪だった。トラックを歩く。ギュッ、ギュッという土の抵抗を感じるように、いつもより強く足を蹴って歩く。
野球場でノックを受けている選手達をぼんやりと見てる。硬式のボールが金属バットに当たる音。そのリズム。
体育館の脇にいつもいる、茶色のトラ縞の猫の、左後ろ足が、ざっくりとえぐられていて肉が露出している。猫同志のけんかで噛みちぎられたのではなく、鋭利な刃物で切り取られたようなシャープな切り口。生々しいピンクの肉が痛々しい。
緑地のなかの道路の脇に、いつも放置して(捨てて)ある自転車が、今日は逆さに置いてあった。こんな地味なイタズラをするのはどんなヤツだ。
いつもの場所で、幼稚園の送迎バスを待つ母親と子供。今日はあたたかいので軽めの服装。母親が子供にマフラーを巻こうとするけど、子供が嫌がって、母親のまわりをぐるぐると走って逃げまわる。
白っぽく霞んだ空の色。当たり前のことだけど、空色、は、空の色だけど、水色、は、水の色じゃない。水は透明だ。
水が水色に見えるとしたら、それが空を反映しているから。しばしば反映は、反映されているそのものよりも色が濃く、くっきりしていたりする。オリジナル(例えば空)と、反映そのもの(水面の空色)と、反映させるもの(水という物質)という3者のもつ複雑な関係。水面が、水という物質によって、空の色を表象する。イメージということ。
例えば、唐突だけど、大島弓子は、年老いた象を、セーラー服を着た三つ編みの女の子の「 後ろ姿 」として表象する。ここにはイメージというものの驚くべき側面が露呈されているように思う。これは単なる比喩的な表現ではないし、シュールレアリスム的なイメージの錯乱でもない。この衝撃的なイメージの変換のさせ方に驚くこと。それは、言語によって/言語について、思考するということとは別の、イメージによって/イメージについて、思考すること。
今日の夕焼けは、青紫。
自転車のタイヤ用の空気入れ、の、すっとした、立ち姿。
夜、チャリンコではしっていても、それほど寒くはない。あたたかくなると急に星があまりよく見えなくなる。昨日までは気持ち悪いくらい見えてたのに。