オリヴェイラの『世界の始まりへの旅』

BOX東中野で、オリヴェイラの『世界の始まりへの旅』。これを今まで観ていなかったなんて、恥ずかしくて言えない。冒頭から最後までのあらゆるショットが刺激的で、一瞬も息をつく暇なく見入ってしまう。なにしろ、レナード・ベルタによって完璧なまでに美しく撮影された画面がほとんど冗談としてしか見えなくなってしまう、というくらいに面白いのだ。全く食えないジジイの揺るぎない老練な態度と、まるで生れたばかりの子猫が世界のあらゆる様相を驚きとともに発見してゆくような初々しい視線とが平気で同居している。自らに課した単純な規則を律儀に(単調に)最後まで守り抜くことがそのまま、途方もなくいい加減でかつ大胆なことであってしまうという不条理(車のなかで各々の人物を捉えるカメラポジションは、厳密に一定で全く変化しないのだ。それが厳密であることの何といい加減なことか。)。厳密であることに実は何の根拠もないのだというナンセンス、そして厳密さがナンセンスにまで突き抜けてしまうことによって立ち上がる、硬質で唯物論的とも言える輝き。この奇妙に厳密で単調とも言える反復は、映画というシステムが(あるいはこの世界が)登場人物とも観客とも別の原理で作動していることをはっきりと示している。この映画でカメラは主観的であることを徹底して避けていて、非人称的な視線に徹しているが、登場人物たちに常に寄り添ってはいる。しかしそのような寄り添う視線とは別の、突き放した「異質の視線」が何度かふいに現れる瞬間があるのだ。例えば、川を挟んで4人の人物が学校を眺めている、異様なまでに規則的な切り返しの連続で組み立てられたシーンの直前に、目が霞んで良く見えないというマストロヤンニのために誰かが車のなかに双眼鏡を取りにゆく時、カメラは先まわりして無人の車内のシートの上にポツンと置かれた双眼鏡を示すのだ。ここでは双眼鏡を取りに行くということは事前には一切説明されておらず、いきなり「あり得ない視線」によってシートの上の双眼鏡が示されてしまう。あれだけ、反復するカメラポジションの厳密さにこだわっていたオリヴェイラが、ここではあっさりと規則破りをするのだ。つまりオリヴェイラにとっては、厳密に規則を守ること(作品としてのあるスタイルを確立すること)が問題なのでもないし、逆に規則を破って出鱈目さを示すことが問題なのでもなくて、「面白い」かどうかということが問題なのだ。ここで言う「面白さ」というのはつまり、様々な力が錯綜している「世界」が与えてくる「驚き」のことであり、その「驚き」の発見に対していつも開かれている状態のことを言うのだ。「それ」がただ「そのようにしてある」ということへの驚き、(例えばマストロヤンニの老いた猫背と、女優のスッと伸びた首筋の対比は、ただそれが「そのようにしてある」だけで「面白い」のだ)『世界の始まりへの旅』ではそのような「驚き」が始めから終りまでずっと持続している。