『世界の始まりへの旅』について、その2

浅田彰氏の「i-critique」によると、オリヴェイラの『クレーヴの奥方』は古典的なテクストを悠然としたテンポで完璧に映画化したものだが、大時代的で紙芝居のようなものでもあり、そのことに自覚的なオリヴェイラは、映画のラストにブルジョアたちの世界の外側であるアフリカへと主人公を旅立たせるのだが、その姿は映し出されることはなくただ彼女からの手紙が朗読されるだけで、つまり「アフリカの現実」のようなブルジョア世界の外側で起こる事柄を、映画は決して捉えることが出来ないのだ、ということを示してもいる訳で、そのような意味で徹底した映画批判にもなっている、と言うことなのだ。勿論この言葉を素直にとってはいけない。これはとても遠回しにヒネったオリヴェイラ批判であって、彼の映画はどんなに完璧でも結局西欧のブルジョア的なものの粋をはみ出すことはない、と浅田氏は言いたいのだ。

だいいちオリヴェイラは、「映画」を批判するために「映画では現すことの出来ない限界」を示す、ことなどしない。そのような「否定」を介した表現や思考などとは無縁であって、ただたんに映画に出来ることをして、「出来ないこと」は「しない」というだけなのだ。ただ見せるべきものを示し、聞かせるべき音を響かせるだけなのだ。だからピリピリするほどエッヂの際立ったシューベルトと、ユルくてボケていて甘ったるいヘンなロック歌手の曲とが対置されるようにあっても、その対立に何か意味がある訳ではなく、ただそれがそれとしてそこにあるだけなのだ。それは『世界の始まりへの旅』でも変わらない。ほとんどぶっきらぼうとも思える素っ気なさで同一のカメラポジションが延々と反復される時、そこにあるものをそのまま示すことが出来れば、それだけで充分に見るに値するものがあらわれる、という世界の豊かさに対する確信があるのだし、(勿論イロイロと仕掛けは必要なのだが)映画は「映画に出来ること」をするだけで、そのような世界の豊かさに開かれていて、その幾分かを捉えることが出来るのだ、という確信に貫かれているのだ。

『世界の始まりへの旅』で移動するワゴン車の内部のショットは4種類しかない。4人の登場人物それぞれを捉えるその4つのショットは、少しの狂いもなく同じ場所に据えられたカメラの同一のレンズによって撮影されている(と思う)。移動し、位置をかえるのは車の方であってカメラでも人物でもない。(しかし、車の移動による光の変化、走行する車の微妙な震動、映し出される人物の顔、表情、そしてその声などによって、少しも単調でも退屈でもないのだ。)ほとんどバカバカしいくらいに律儀な反復は、撮影される対象よりも、フレームとそのフレームの交代するリズムが先行してあって、撮影対象である人物はそれら従属しているようにさえ感じられる。フレームが先行すると言っても、あらかじめ監督なりカメラマンなりがイメージした「画」があって、そのイメージに撮影対象が従属しているという感じは全くない。ただ、はじめにひとつの「規則」があり(イメージがあるのではない)、その規則には何の根拠もないのだが断固としたものとしてあって、出演者も監督もスタッフも皆等しくその「規則」に従っている、という感じなのだ。この理不尽ともいえる規則の徹底は、しかし堅苦しさや単調さではなく、ユーモラスな「可笑しさ」を生み出している。人物は車の内部ではフレームに規定されて(まるで物のように)ほぼ動きを奪われてしまっているのだが、それによってかえって1人1人の肉体的な特質が生々しく露になっているようにも思える。(この、人物の「物」のような固着が、いきなり挿入される、シートの上の双眼鏡のショットを呼び込むのかもしれない。)

この映画にはロードムービーにつき物の、車窓から捉えられた外の風景というショットはない。窓枠というフレームを画面のフレーム内に入れることで、イメージが人称化して、車内にいる誰かの視線を感じさせてしまうようなショットは周到に避けられている。(ペドロ・マカオ像を発見するショットなどは、実に「不自然」に窓枠をフレームから排除しているように思える.)あるのはただ車の後方に取り付けられたと「思われる」、「まるで」自動車の窓から見た「かのように」移動するイメージ(画面)ばかりである。それらのイメージが、登場人物たちの乗っている車から見えるものである保障(例えば窓枠や車内の人物越しに外の風景が示されているような)はどこにもない。だから車の走行するシーンでは、車内にいる4人の人物それぞれの固定ショットと、彼らとどのような関係にあるのか明確でない、移動する風景のショットとが、希薄で危うい感じで結びつけられているだけなのだ。つまり一つ一つのショットが、他のショットとの関係が明確でなく、まるでそのショットがそれだけで独立してあるかのようにバラバラな感じでひしめいているのだ。

この映画は決して規則的に組み立てられたシーンからだけ出来ている訳ではない。廃墟と化したホテルの庭先でのシーンのように流麗な移動撮影もあれば、俳優が父親の姉と邂逅する応接間のような場所でのシーンように、目を見張るような斬新なショットの組み立てによって出来ているシーンもある。しかし、それらも含めて全体として、中味より先に、厳密に形づくられた「器」がある、という感じが強くあるのだ。だがそれは、中味よりも器が重要だ、ということを決して意味しない。オリヴェイラはまず厳密に器をつくり、そこに現実を満たしてゆく。(だからそれは「器」というより「捕獲装置」といった方がいいかもしれない。)ある「器」によって掬われた「現実」というのは、勿論その器によって「限定」されたものでしかない。そうだとしても、そこに少しばかりの「現実」が捉えられていることに変わりはない。オリヴェイラは、「思考が決して思考できないもの」をどのように思考するか、とか、「映画によって表象不可能なもの」をどのように表象するのか、といった考え方から自由であるのだ。それが限定されたほんの僅かなものであっても、そこに「現実」があり「事物」があるのなら、それこそが重要であり、そのことを肯定すればよい。不可能なことを夢想するのではなくて、可能なことを徹底してすればよいのだ。