『世界の始まりへの旅』について、その3

オリヴェイラの映画においては、視線は容易には交わらない。人々は大概向かい合わずに並んでいるし、切り返しはギクシャクする。誰かがある人物を見つめていたとしても、その視線は一方的なものであって、相手からは見返されない。(例えば『アブラハム渓谷』で、エマは多くの人から一方的に見られる対象として存在しているし、『クレーヴの奥方』でクレーヴ夫人が見つめる相手であるロック歌手はサングラスをしているので、彼の見返す視線は画面では捉えられない。)『世界の始まりへの旅』においても、人物たちはほとんどお互いを見ない、という印象がある。車のなかでは当然、シートに座っているのだから同じ方向を向いているし、車から降りても、彼らは横に並んで同じ方向に目をやっている。彼らが見ているのは、川の向こうにある学校であり、廃墟と化したホテルであり、ペドロ・マカオ像であり、俳優の叔母である年老いた女性である。しかし彼らは決して同じ物を見ている訳ではない。彼らの視線は、ほぼ同じ方向を向いてはいても、結構勝手によそ見をしているのだ。例外的に彼らの視線を集中させるのは、終盤に登場する俳優の叔母だろう。(しかしそんな時でもマストロヤンニなどは部屋に置いてある剥製を見たりしているのだ。勿論剥製は彼を見返したりしないのだから、ここでも視線は一方的なのだ。そして彼はヘンな寄り目の表情をする。)いや、実はこの、俳優とその叔母が初めて会うシーンでのショットの構成はとても複雑で、必ずしも皆が叔母を集中して見ているとは言えない。しかし恐らくここで初めて、カメラがほぼ正面からしっかりと、そしてじっくりと人物を捉えるのだ。だから正確には、登場人物たちの視線が彼女に集中するのではなくて、この「映画」の視線が、ここで初めて1人の人物へと集中してゆくのだ。このシーンとこれにつづくどこかの暗い部屋のなかで叔母が語るシーンで、「映画」は1人の人物をジッと見つめることになる。(ここで捉えられる老女の眼差しは、恐らくこの映画で最も強い印象を与える眼差しであると思う。しかしこの眼差しは何処を見ているのか定かではない。つまり映画を観ている我々観客の老女に向けられた視線は、老女の眼差しによって応えられることなくはぐらかされ、自分の視線が一方的なものでしかない、ということを自覚せざるを得なくなる。)この映画としては例外的に、1人の人物に視線が集中してゆくとき、登場人物たちもまた、例外的にお互いを見ることが許されるのだ。ここで叔母の語るポルトガル語を理解出来ない俳優に対して、2人の人物がかわるがわるフランス語に翻訳をする。(翻訳者が複数であることは結構重要だ。)俳優は、語っている叔母を見るだけではなく2人の翻訳者を見ては問いかけ、彼らの話を聞き、翻訳者たちも、叔母の話を聞いては、俳優に話し掛ける。このことで今までバラバラに散っていて交わることのないように思えた視線や言葉が、ここで初めて「辛うじて」交錯するのだ。(ここで、俳優と叔母との交錯は、翻訳者という媒介によっているのだし、翻訳者たちと俳優との交錯は、叔母という媒介によっているのだから、当然ある程度噛み合わない部分もあるギクシャクとしたものではあるのだ。)そしてマストロヤンニ演じる監督だけがポツンと1人で、彼らからやや離れた場所でそれらの事柄を外側から見ている。(しかし、離れた場所から、つまり「一方的な視線」ではあっても、彼もその時初めて彼らをちゃんと見ているのだ。)

しかし実は、オリヴェイラの映画においては、視線が常に一方的であり、見つめる視線がそれに応えてくれる対象を持たず、見られた対象がそれを見ている明確な視点を特定しない、つまり見つめ合う関係(見る/見られる、という関係)が成り立たないというそのことによってこそ、イメージそのものの開放性や純粋性が保たれ、強度が生み出されていたのではなかっただろうか。あたかも車窓から見られたかのように見える風景が、実はそれが本当に車窓からのものであることを保障する根拠がどこにもないからこそ、あの移動する風景はあんなにも素晴らしいものとなったではないのだろうか。あるいは、叔母のあの視線があんなにも力強く感じられるのは、それが何処を見つめているのか定かではないからではなかったか。だとしたら、ぼくがここでとりあえず書き上げた「叔母という存在によって可能となった視線の交錯」という物語は罠でしかなく、すぐに廃棄されるべきもののかもしれない。