『世界の始まりへの旅』について、その4

『世界の始まりへの旅』を構成するショットは無人称的であり、主観性は排されているのだが、その無人称の視線は基本的に「旅する人物」たちの傍らにいて、彼らとともに移動しているような視線である。しかし時おり、いきなりという感じでそれとは「異質のショット」が挿入される。その「異質のショット」は、まるで定点観測する監視カメラか、あるいは地縛霊の視点でもあるような、「その場所にずっといつづけている視点」であるように見える。そして、監視カメラの映像など普段はほとんど見られることがなく、何か事が起きた時にだけ、あとからビデオテープが巻き戻されて再生されるだけなのと同じように、「その場にずっといつづける視点」はあくまで潜在的なものであって、その近くを旅人が通りかかる時にだけ、彼らの視線と交錯することで顕在化するようなものなのだ。例えば、ワゴン車で旅をする一行が、途中、村の辻のような場所で地元の人に道を聞くというシーンがあるのだが、このシーンはこの映画では例外的に俯瞰からのロングショットで示されている。ここで恐らく映画はもう半ばを過ぎていて、ここまでずっとこの映画を観てきた者は、このショットが映画のなかで異質であることを感じざるを得ない。この「異質」な感じは何処からくるのだろうと考えると、まずこの映画ではここまで、全体的な状況を一挙に示すような形のロングショットはひとつもなく、その場の状況は常に、部分を示すショットの組み立てによって示されていたのだ、と気付く。そして、無人称ではあっても、カメラはいつもその土地の外部から来た旅人の傍らにあって、彼らとともに移動していたのだとも。つまりこの俯瞰のロングショットが異質なのは、これがまるでこの土地にずっと居ついている土地の神か何かによる視線のように見えるからなのだ。そしてこのショットから考えると、ここまであからさまに「異質」ではないにしても、同様の違和感を伴ったショットが他にいくつかあったことにも思い至るのだ。ペドロ・マカオ像のある家の前に佇む人物を、その家の庭の内部から門越しに捉えたショットや、俳優とその叔母が邂逅するシーンで、その家の応接間の様子をドアの外側から捉えたショットなどは、土地の神とまではいかなくても、その家の氏神とでみ言ったらよいのだろうか、つまり「その場所にずっといつづけている視点」によるものなのだ。そう考えると、誰もいなくなった車のなかで、ポツソとシートの上に置いてある双眼鏡を示すショットなども、常に車と共にありつづける視点による映像が、マストロヤンニの「よく見えない」とか何とかいう言葉によって呼び出され、顕在化したものと言えるのかもしれない。「その場所にずっといつづけている視点」は、普段は決して自らを主張しようとせずに忘れ去られたままで、自分が居るその「忘れられた場所」にずっと存在しつづけているのだが、その近くをたまたま通りかかった「旅する視点」とふいに交錯することで沈黙を破り、ふっとその姿を現す。これはこの映画のひとつの重要なテーマでもあるのだ。

この「その場所にずっといつづけている視点」をそのまま人物化したのが、終盤に登場する、俳優の叔母という人物だろう。彼女はこの「世界から忘れ去られたような場所」にずっと存在しつづけているのだ。彼女は言う。「世界は私たちのことなどすっかり忘れていて、戦争のときくらいしか思い出さない」と。つまり「旅する視線」による顕在化とは同時に、戦争に利用できるものを見つけようとする「権力による検索=捕獲装置」のようなものでもあるのだ。だから彼女は、いきなり現れた弟の息子だという人物をなかなか信用しようとはしない。世界に張り巡らされた視線の網の目に引っ掛からない者=物は、そこに確かに存在していても、常に忘れ去られている。マイナーであるということはそういうことなのだ。しかし映画はたんにカメラを向けるだけでその存在をそのまま示すことが出来る。しかし、何故それは示されなければならないのか(忘れ去られたままでは駄目なのか)、何故他の何かではなくそれを示すのか、それを示すという行為というのは一体どういうことなのか(それが何に貢献してしまうのか)、という「政治性」からは決して自由ではいられないのだが。