01/9/13(木)

●飛行機がビルに突っ込んでゆく、あれらの映像は、様々な立場の人、恐らく報道カメラマンや現地の人や観光客などによって、様々な偶然や必然から撮影され、その映像が報道機関へ回収されてゆく道筋もそれぞれ違うものであったはずだ。テレビを観ていたら、それらの異質なはずの映像が、まるで本当に映画みたいにきれいにモンタージュされて流されていて、それにはちょっとゾッとさせられた。

●表象は表象でしかなく、起こった事件そのものは表象不可能である、というのは多分本当だろう。しかし、それでも表象は必要なのだ。表象がない場所にこそ暴力が吹き荒れる。マルクスは、自分を表象=代表するものをもたない階級は、誰かに表象=代表されなければならない、と言っている。できるだけ多くの、できるだけ多様な視点からの物語や映像が必要なのだ。唯一の正しい物語(映像)ではなく、できるだけ多くの「単なる物語(単なる映像)」が示されなければならない。それが、表象とは呼べないような、断片やノイズであっても。

●しかし、我々がこの事件について、こんなにも多くの物語や映像(ハイジャックされた飛行機から携帯で肉親に電話をした。ビルの構造は額縁構造だ。間一髪で脱出に成功した人の話。テロリストの物語。大統領の声明。倒壊するビル。沸き上がる煙。廃墟と化した跡地。等々)に触れることができるのは、それが「アメリカ」で起きたことだからに他ならない、ということは忘れてはならないだろう。(そしてそれらがアメリカ的に加工された物語であり映像であるということも。)もしこれと同等のことが、中東のマイナーな地域で起こったとしても、遠くからの荒れた映像と、詳細のよく解らない短いコメントが与えられるだけだろう。もしアメリカが「報復」を行ったとして、その「報復」によって無惨に倒壊する建物や、逃げまどう、あるいは死傷した一般の人々の映像を、こんなにもはっきりと明解に示すのだろうか。つまりこのような点で、我々に与えられている物語や映像は、決定的に不公平であり、片一方が欠けていることをいつも意識していなければならないだろう。

●テロリストは、表象されない=知覚されないことによってテロを可能にする。しかし、テロという行為そのものは、明らかに何かを表象=代表しようとしている。テロリストは、アメリカ的な表象秩序とは全く違う通路を通って、しかし最大限に効果的なアメリカ的表象を利用して、「別のもの」を出現させようとした。そしてアメリカは必死でそれを「アメリカ的な物語」に回収して処理しようとしている。当然だが、ぼくはほんの少しもテロに対して共感を持たない。(それは何ものも代表しないことによって、あらゆる矛盾を一挙に代表しているかのように見える空虚な祝祭であるだけだ。いや、空虚であるだけなら良いのだが、殺戮である訳だ。)しかし、おそらくアメリカ的な表象秩序は必然的にテロを生み出さざるを得ないものだと感じる。テロに対して断固として闘う、と称して行われる「報復」は、決してテロを根絶やしにすることは出来ず、新たな火種を産むことになってしまうだけではないか。

●では、どうすれば良いのか。アメリカ的な一元化された表象秩序の内部で上手くやることでも、その秩序をテロによって破壊することで一気に様々な矛盾を解消することを夢見る(恐らく彼らは「夢見る」ことで苛酷な日常の散文性を耐えているのだと思う)のでもない、オルタナティブで散文的な隙間のような場所を至る所につくり出して、アメリカを虫食いのスカスカにするのだ、なんて言っても、そんなんじゃあ、何も言ったことにはならないのだが。