01/9/14(金)

●テロリストたちを、「理解不能な他者」として、そのような他者と「主体」はどのように関係することが出来るのか、といった倫理的というか哲学的な問題として今回の事件をみようとする人がいるが、しかしこれは、そのような抽象的な問題とは違うのではないだろうか、と感じる。(ぼくはここで、テロを行ったのが今報道されているようなイスラム原理主義だと仮定しているが、勿論そうではないという可能性もある。)彼らは決して「理解不能」な存在などではないだろう。そこにはテロを呼び寄せてしまうしかないような現実、テロを唯一の希望の原理とするしかないような現実が存在している、ということであるはずなのだ。ぼくはテロを容認しないし、テロを希望の原理とするのは単にまちがっていると思うが、しかし、テロを唯一の希望としてしか生きることの出来ない現実があるということを、想像出来ない、ということではないはずなのだ。そしてその現実には、(ぼく自身もその内部に属しているシステムとしての)「アメリカ」が深く関わっているというのも周知の事実であるはずではないのか。

●「報復」という言葉が示す通り、それは「正義」とは何の関係もない。それは決定的な打撃(傷)を受けてしまったあるシステム(主体)が、何とかそれを回復させようとして生じる「感情」のようなものなのだ。だから、強い「感情」に貫かれてしまっている人たちに正論をぶつけてみても、そこには「理屈」に対する「感情」の強い反発と根深い不信とがあらわれるだけだろう。そしてそのような感情に、我々は共感することさえできるだろう。しかし、だからこそ「感情」が「正義」という大義名分と結びついてしまうのを許してはならないのだし、そのような「感情」を「理性」の力で抑え、傷を耐えなくてはならないのだ。「報復」によってでは何も(感情さえも)解決しないことは、ちょっと考えれば誰にでも分るはずなのだ。