01/9/12(水)

●1日じゅうテレビを観ていた。まるでハリウッド映画を思わせるような映像に、どうしてもリアリティーを感じられない、みたいな話があるけど、目に見えるだけの映像だけからリアリティーなどそうそう感じられるはずなど始めからないのであって、起きてしまったことのリアリティーは、これからこの事件の影響によって起こるだろう様々な事柄から、否応なしに感じざるを得なくなるだろう。しかしそれにしても、何度も何度もくり返し流される映像が、尋常ではないものであることには違いない。特に、国際貿易センタービルが崩壊する映像などは、われわれが普段、当然の前提として考えている(信頼してる)何かをつき崩すのに充分な衝撃力を持っていて、だからこそ人々の不安を(そしてその裏返しとしての攻撃性を)不必要なまでに駆り立ててしまう危険があると思える。2本並んで建っている高層ビルに次々と飛行機が突っ込み、しばらくしてそれが崩れ落ちる。人々は逃げまどい、巨大な煙りがあたりを包み込む。このような映像をくり返し見せられれば、誰だって軽い躁状態に陥ってしまうだろうし、そのような状態のまま、テロだ有事だ危機管理だ戦争だ報復だ、という言葉が、起きた事柄の概要が明らかになるより前のドサクサで舞い踊ってしまうのは、とても恐ろしいことだと思う。

とはいえ、人は差し迫った「緊急時」にはやるべき事が目の前に山積しているから、案外冷静に対処できるもので、本当に恐ろしいのは、事態がある程度回収されて落ち着きを取り戻したようにみえた後で、そこでは様々な言説が飛び交い、様々な感情や利害が入り乱れて、対立や摩擦が(一見、関係ないようにも思える所にまで)いろいろな場面ではっきりと表面化してしまうのだろう。そしてそれは様々な場所での、予期出来ない暴力という形で炸裂するだろう。勿論、そんなことは今に始まった事ではなく、世界はもともとそのようなものとしてあるのだ、と言えるだろうし、(報道されているような組織によるテロなのだとして)この事件だって決して唐突に起きたものではなくて、そのような錯綜する力の関係によって起こるべくして起こったとも言えるのだけど、事がこんなにも大きく、こんなにも「効果的」であると、誰もがこの力関係から距離をとることが許されず、否応なしにこの関係のただなかに引きずり込まれていることを自覚しない訳にはいかなくなり、この関係に関する言説や感情はさらに錯綜して、事態は一層混迷を深めてしまうのではないだろうか。いや、本当に恐いのは、混迷そのものであるよりも、混迷を恐れるあまりに一気に「強い力」や「解り易い解決」を求めてしまうところにこそあるのだと思うが。

●リアリティということで言えば、くり返し流される「事件」の映像によって、ぼく自身のリアリティにも微妙な変化があらわれた。報道されている事件があまりにショッキングであまりに大きな事で、個人としての人間というサイズを超えたようなものであり、それを映像があまりにはっきりと映し出しているので、ぼくの感覚を受容する器官のスイッチが切り替わってしまったのか、日常的な事柄に対するリアリティが薄れてしまう感じなのだ。ずっと籠ってテレビを観ていて、夕方、買い物に出掛けた時の、外の空気の感じや、擦れ違う人々や、近所のスーパーに並んでいる品々や、いつもレジ打ちをしているアルバイトの女の子や、それら実際に近くにあるものたちが皆、何か希薄な、スーッと遠くにあるもののように思えてしまうのだった。テレビから流れる映像でも、大相撲や江藤のホームランなどが、崩壊するビルやその後の廃墟の映像を見たあとだと、何か書き割りめいた薄っぺらいものに感じられてしまうのだ。(だからと言って、映像によって示されたニューヨークのあの「現場」を近いものと感じている訳ではない。それは多分、現場に実際に立ち会ったとしても、近いとは感じられないものだと思う。)これはとても危険かつ病的なことで、例えば、阪神淡路大震災の後の、少年サカキバラなどか陥っていたのもこういう感覚なのではないのかと、ふと思ったりした。しかしこれは、危険であるのと同時に不可避な感覚でもあるように思う。明日にでもなれば、テレビ放送もほとんど通常の状態に戻るだろうし、日常生活はかわりなく動きだすのだろうけど、起こってしまったことは消えないし、見てしまったものは、見てしまったのだ。

柄谷行人は書いている。《ものを考えるのは、ある意味で、例外状況あるいはアブノーマルな事態から考えることです。たとえば、誰でも重い病気になると人生について考えますね。ノーマル(規範的)ではない形態から出発するというのは、ものを考える上で基本的な姿勢だと思うんです。しかし、それはノーマルな状態を軽蔑することではない。ただ、日常的なノーマルなものが、どんなに複雑であるか、またそれが堅固に見えてどんなに脆弱であるか、そういったことを知るために不可欠なのです。ニーチェはそれを「病者の光学」と呼んだと思います。(議会制の問題)》