『童年往時』

●『童年往時』は、はじめて観たホウ・シャオシェンであり、最も好きなホウ・シェオシェンなのだが(この映画が日本で公開されたのは確か88〜89年のことで、その頃、昭和が平成にかわり、映画作家として北野武阪本順治がデビューし、そしてぼくが三浪の末大学に潜り込んだ)、久しぶりにビデオで観て、いろいろ思った。この映画は、例えば一昨日書いたオリヴェイラなどとは違って、映像の外に、その個々の映像の繋がりを導きフォルムを規定する「法」(としてのテキスト)のようなものの存在が希薄で、映像それ自体(それぞれのショット、そこに映し出されている事物、光、風、人物、身ぶり、エピソード等)の、呼応や響き合いによってゆるやかに繋がれ(関係づけられ)ていて、個々の映像の、呼吸し明滅するような反復的なリズムによって進行する。だがそれは純粋に映像のみに由来するのではなく、映画をひとつの「作品」として束ねているのは、それが一人の人物の「記憶」を巡るものだという「感触」であろう。(つまりその「厚み」であって、「話法」ではなく、あくまで「感触」なのだ。)この映画の成り立ちは台湾の歴史と決して切り離すことは出来ないが、それはこの映画があくまで個人の「記憶」として組み立てられていることに由来している。つまり、ここであらわになる「歴史」とは個人の記憶のなかに必然的に影を落とす限りにおいての歴史であり、個人と切り離されたところで(立体的に)成立する「歴史=物語」が構築され、記述されようとしているのではない。これ以降、ホウ・シャオシェンは映画が(映像が)、そして個人の「記憶(感触)」が、どのように(個人の記憶の外側に圧倒的な現実としてある)「歴史」と関係し、それを構築、記述し得るのかという様々な試行錯誤をくり返し(この点でほくには、評価の高い『非情城市』におけるその関係性がいまひとつよく分からないのだが)、その果てに『憂鬱な楽園』や『ミレニアム・マンボ』(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/yo.28.html#Anchor4548722)のような、その(映像と音声)の背後に、どのような歴史も記憶ももたないような作風にまで果敢に突き進んでゆく。(『珈琲時光』は観てません。)
●そのようなこととは全く別に気になったこと。この映画は一人の主人公を中心としてその家族が描かれているのだが、その父親が亡くなり葬儀のシーンが終わった後、唐突にいままで画面では見たことのない若者の顔が映し出される。若者はどこかを鋭い目つきで見つめながら、サトウキビのようなものを齧っている。観客は、この見慣れないショットがあらわれた瞬間に、ここで(物語上の)時間的な飛躍があり、この見慣れない若者は主人公アハの成長した姿であることを理解する。しかし不思議なのは、何故そこまで瞬時に「理解」してしまうことが出来るのか、ということだ。勿論、この時点でそれを理解しなくても、この後の映像の展開を注意深く追っていけばそれを理解することは出来る。と言うか、この時点の理解は「理解」というより直感的な予想に過ぎなくて、それ以降の物語の展開がその予想を確信させるというわけなのだが。しかしそれでも多くの観客が、ここで大した混乱もなく、この未知の若者をアハとして確信し、これ以降の映像を追ってゆくのは間違いがないだろう。だが実は、この若者がアハであるということの根拠はこの時点では実は何も示されてはいないのだ。にも関わらずそれを「理解」してしまうのは、それが映画が物語を語る時の「お約束」であり、観客がその「お約束」に無意識のうちに従って画面の連鎖を追ってしまっているからであり、また、監督がその「お約束」を前提として画面を繋いでしまっているからではないのだろうか。作品をつくるものにとって、このような「お約束」の処理はとても悩ましい問題のはずなのだ。映画が物語を語ることが可能なのは、その複数の映像の連鎖の間の因果関係を、観客がそれぞれの頭のなかで組み立てるからなのだと思うが、その組み立てを、人間が普通に物事を判断し因果関係を読み取る時のやり方でするはなく、映画独自の(映画でしか通用しない)「お約束」に基づくやり方でするのだとしたら、それはやはり映画をひどくつまらない、閉じられたものにするのではないかと、どうしても思ってしまう。(勿論、あえて「お約束」に反するということも、同様につまらないことだ。)ぼくはここでホウ・シャオシェン に文句を言いたいわけではない。このショットの「いきなり」な感じは、物語上での時間の飛躍を観客に印象づける意味でとても見事だし、それは決して「お約束」ではない。だから問題があるとすれば、ここであまりにも滑らかにこの若者をアハだと(「お約束」に従って)判断してしまう「ぼく」の方であろう。そして、あるジャンルに詳しくなる(親しくなる)ことが、もし、このような「お約束」や「作法」を自然と身につけることなのだとしたら、それは限りなく下らないことだと思うのだった。(しかし、このような「お約束」に通じることが「玄人」の証だと思っているような人が案外多いのでうんざりしてしまうのだが。)