目黒区美術館区民ギャラリーで浅見貴子・展

05/03/24(木)
目黒区美術館区民ギャラリーで浅見貴子(http://www.gaden.jp/arts/azami.html)・展。浅見氏の絵画作品は基本的に黒と白とで出来ていて、それを媒介する中間的なトーンとしてのグレーがない。このことが、浅見氏が穿つ点に保留や逡巡のないきっぱりした力を与え、そして、黒と白とがつくる絶え間ない反転のリズムに、轟くような重みを与えていると思われる。しかし、黒と白しかないと言っても、そこに単調な二項対立的な明滅があるだけではない。例えば、毛筆によって打たれた黒い無数の点は、一つ一つが微妙に異なる豊かな表情と形態をもつし、周囲に滲み出してゆくような独自のエッジをもつ。これらの点の黒は基本的に紙の「裏側」から描かれているので、紙を通して滲みている色であり、たんに「黒」という言葉では捉えられない深みをもつ。そして白も、微妙に黄色味がかった紙の色と、描かれた(裏側から滲みてくる)胡粉の色とでは表情がことなる。言葉にして解釈しようとすれば、二項対立的な白と黒の明滅が、微分化され、複雑な分布で細かく散らばっているので、観者がその様を目で追うことで、(それを観ている人の視覚のなかで)、ざわざわと動きつつ振動する「面」という(二項対立とは別の、バーチャルな)次元が生成されるのだ、と言えるが、実際に物である「絵画」を観ている視覚は、そのような構造だけを見ているわけではなく、それ以上の表情を拾うので、そこに厚みが生まれる、と。しかし、ただこれだけではたんなるモアレ模様の効果とそれほど変わらず、浅見氏の核品から感じられる「立体的な複雑さ」のようなものを説明(記述)出来ていない。浅見氏の作品はもっと複雑であり、その複雑さは勿論、たんなる混沌ではない立体的な構造をもつように思われる。
浅見氏の作品は、基本的に白と黒とで構成され、穿たれた点と、点と点との間の余白との明滅と反転、そしてその間をはしりぬける線、によって出来ていると思われるが、それらはたんに平面上の広がりとして配置されるのではなく、ことなるいくつかの「層」の重なりとして構築されているように見える。この「層」の成立が、浅見氏の作品に立体的な構造を(空間を)つくりだしているのではないかと、今回展示されている5点の作品を観ていて思い至った。勿論、ここで言う立体とか空間とかは、単純な三次元的空間の表象のことではない。点と余白の明滅と反転のリズム、その偏りが作り出す平面的な横への広がりと同時に、画面に穿たれている点の集積が「ひとつの平面」の上に配置されているのではなく、ことなるいくつかの「層(次元)」になっているのが見えてくる、ということが成立することで生まれる立体的な構造、その構造がつくりだす視覚的な「複雑さ」の感触のことを「空間」を呼んでいるのだ。ことなるいくつかの「層」とは、具体的には、例えば、樹木の形態を割合忠実に追っているような点や線の層があり、そこからやや離れながらも、樹木の持つ空間を感じさせるように打たれた点の層があり、具体的な樹木の形態とはあまり関係なく、絵を描く作家自身の身体的なリズムを強く反映して穿たれたような点の層がある、といった層のことであり、それらの複数の層が同一画面で重ねられ、しかも画面は白と黒だけで構成されているにもかかわらず、それらの層が決してグダグタに混じり合うことなく、あくまで分離した層としてちゃんと見えているのは、技術的な問題としてみても相当に驚くべき高度なことではないかと思う。重ねられた「層」は、目がそれを「層」として捉えようとしている時には「層」としてちゃんと見えているのだが、目が画面を「横への広がり」として追っている時にはその「層」は混じり合って、明滅と反転のリズムをかたちづくる、振幅する点の重なりとズレへと解けてゆくだろう。この二重性が、浅見氏の作品を、たんに樹木の存在を描いたものと言うことも出来ず、たんに点と余白との明滅と反転の音楽的なリズムに還元することも出来ない、簡単には解けない、いくら観ていても観飽きることのないと同時に視線に強い手応えを感じさせる、複雑で立体的で魅力的なものにしていると思われた。
●浅見氏の作品は、現代において絵画を描こうとする時、シニカルになったり、過度に戦略的(ということはつまり防衛的だということだと思う)になったりする必要などなく、ごく普通に「良い絵」を描くように努力すれば良いのだということを、つまり絵画を信じることを教えてくれるような、とても貴重なものなのだ、
●浅見貴子・展は、目黒区美術館区民ギャラリーで27日(日)まで。開館は10時〜18時、最終日は16時まで。