小島信夫/保坂和志(往復書簡)『小説修業』を読んだ

●それにしても小島信夫の文章は読みにくい。何が書いてあるのか分らない訳ではないし、特別難しいことが書かれている訳でもないのだが、何故、そのようなことがそのような順番で書かれるのか、何故ある問いかけに関して、そのような応対が出てくるのか、がよく分らないのだ。文章の繋がりとか展開とかもよく分らない。ある話題が唐突に現れ、その話題がどこにも着地しないうちに、またどういう繋がりがあるのか分らない別の話題が出てきたりする。例えば後藤明生という作家がいて、自分の小説の方法をアミダクジ的だと言うのだが、例えそれがどこへ向かっているか分らないフラフラした道行きだとしても、それは「線」としては辿れるのだが、小島氏の文章は、ブツブツと切れていて線にならないのだ。そしてそのブツブツ途切れた断片たちの位置関係も定かではなく、空間が歪んでいるというか、空間が成り立たない感じなのだ。(それはこの本に限ったことではなく、小説になるともっと凄くなる。)それに関して小島氏は《一見無関係なことを語るように見えながら、奥の方から大きく結びついていくというふうに語りついでゆくやり方を私は好む。どうか性急に要求しないで下さい。何ごとかをきれいに割り切って語ったとしたってそれですむものではない。》と書くし、保坂氏は《(『美濃』という小説の登場人物たちは喋りつづけるのだが)なんでこんなことを彼らが熱心に喋っているのか、動機や理由や目論見がわからなくなるのですが、わからないからこそ、彼らの「話したい」「話を聞いてほしい」「おまえはこの話を聞くべきだ」という気持ちにつき合わされるような気分になってきます。》《そういう風に基盤が狂っていて、自分の意志では補正できないのが、小島信夫の言語ないし思考の基本的なプログラミングで、小説の主人公として描かれる小島信夫も、現実の小島信夫も、プログラムの狂いをじゅうぶんに承知しつつも、いかんともしがたくてあれこれ苦闘するのですが、苦闘すればするほど事態は混迷を深めていくのです。》と書く。この本でも、最初の方は、話が噛み合っているのかいないのか微妙な感じで、それが、一体どこへ向かってゆくのだろうかとスリリングなのだが、後半になってくると小島氏の文章は保坂氏の文に対して、ほとんど反射的というか、自動書記的に対応していて、ただ書いている、内容は何でもいいから「書く=返答する」という行為だけがそこにある、という感じの文章になって、それに対して保坂氏は1人で一生懸命に説明にまわるという流れになってしまう。それはそれで、小島氏の痛烈なまでの「実存」と、保坂氏の「生真面目さ」が現れていて面白いのだが、《(小島氏の小説を読むことは)まず第一に作者のプログラムの狂いを一緒になって経験するということなのです》と書く保坂氏が、ふと小島氏のペースに同調してしまったり、またはそれに反発することでいつもペースが崩されてしまう、というところにまでは至っていない。保坂氏は、公開を前提とした往復書簡という形式に戸惑っていて、自分が、実際に知っているあの小島信夫に向かって語りかけているのか、それとも、一般的な、目の前にはいない読者に向かって書いているのか揺れ動いていて、始めのうちは、基本的に小島氏に語りかけながら読者用に補足をするという感じだったのが、後半はほとんど読者に向かって書いていて、それを小島氏も読むだろう、という感じにかわっているように思えた。対して小島氏は、はじめから保坂氏も読者も一緒で明確な区別はなく、ぐちゃぐちゃに混ざっていて、つまりそれはほとんど独り言のようにも聞こえるのだった。

●確かに小島信夫という小説家の固有性は断固としたものとしてあり、小島信夫という「システム」は貴重なものとして尊重されるべきだろう。しかし一方で、ぼく自身の問題として、ぼくの無限にある訳ではない限られた人生の時間のなかで、それとどの程度にまで関わるべきなのか、という問題がある。ぼくは今まで小島氏の小説を何冊か読んだことがあるが、『うるわしき日々』以外は最後まで読み切るこど出来ていない。普通に名作と言われる『抱擁家族』でも、駄目だった。(タイトルど忘れしたけど、漱石についての分厚いエッセイは面白くて一気に最後まで読めた。)どの小説も始めは、読みずらい、へんな気持ちの悪い文章だなあ、と思って読み、しばらく読みすすんでゆくうちに徐々に面白くなってきて、そのうち、何これ、凄く面白いじゃん、とズンズンと進んでゆき、しかしある時点で急に、ふと、自分が何故こういうものにつき合っているのかという疑問が沸き、バカバカしく感じられ、それでもしばらくは読んでいるのだが、結局投げ出してしまう、ということになる。小島氏の小説を読もうとすると、決まってこんな風になる。それは多分、小島的な混乱を、ぼくはある程度までは受け止め、面白がれるのだが、その混乱がある閾を超えてしまうと、それについてゆけなくなってしまうのだろう。しかし、『小説修行』という本を読んで思ったのは、もしかすると小島氏の小説は、「小説」を読むように、あるいは「作品」を読むように読むのでは駄目で、もっと違った、それにふさわしい読み方を見つけることが出来れば、ぼくにとっても、とても刺激的なものなのかもしれない、ということだ。

●この本のなかで保坂氏が強調するのは、20世紀の小説はもはや、《ぜんたい》をあらわすことは出来なくて、《部分》的であるほかないと言うことで、それは、現在ではもう、「個々のなかに全体がある」とか「部分は全体を写す」とかいう考えにリアリティーがなくなってしまったからだ、と言う。この時、文学作品が、「文学作品」として閉じて自律したもの(それ自体で完結した完璧なフォルムをもつもの)でありながらも、それがその外側の「世界」のあり方を「写す」という形での「文学」(つまり世界全体のひな形としての「世界観」を構築するような文学)が、信じられなくなった、と言うのだ。(保坂氏が、自らの小説に登場する「猫」は何の比喩でも象徴でもなくて、ただ「猫」そのもののことだ、と言い、比喩や象徴という機能によって成立するような、「文学的」な小説のシステムを強く批判するのはこのためだろう。それはつまり『論理哲学論考』のような世界の否定であるだろう。)そして、小島氏の小説の、小説という機能からの「崩れ」も、このようなところからきているからリアルなのだ、と保坂氏は考えているのだろう。

例えば、チェーホフの小説の登場人物が、「自分が彼女のことを思っているとき、彼女も自分のことを思い出しているのではないだろうか」と考えたり、「自分が今行っている事を、百年後に生きる人々はありがたいと思ってくれるだろうか」と考える時、そこに現れているのは、他者や世界から切り離されて、決して全体性を回復することなど不可能になったような、断片としてしかありえない「個人」の姿であり、その「断片としてしかありえない個人」が、また別の「断片でしかない個人=他者」について思いを寄せる、という出来事なのだ。断片としての個人が抱く「思い」は、別の断片である他者に届くかもしれないし、届かないかもしれない。しかしもし届いたとしても、それはあくまで断片と別の断片との結びつきであって、決してプラトン的な完全性へ向けての「合一」などではない。断片はいくら沢山掻き集めても、断片でしかないのだ。そのような世界においては、「小説=作品」は、あるひとつのフォルムによって「世界を写す」ものではなくて、この世界のなかで作動するひとつのシステム(無数にあるシステムのうちのひとつ)であるしかない。つまり保坂氏は、全体を統一的に語ろうとする言葉のことごとくが嘘である、と言っているように思えるし、ぼくもそれはその通りだと思うのだった。