02/03/13

●アトリエに何やらアヤシイ人影がどこからともなく集まり、ひそひそと密談を交わす。同世代の画家たち何人かが集まって、様々な個々の作家や批評家たちについてのそれぞれの評価や、美術の現状についての認識などの意見を交わし合う。個人主義的というのか、わがままな上にあまり外交的とは言えない画家たちのことだから、こういうことをしたからといって、すぐに何かしらの「動き」を起こそうということにはならないのだが。特に、ぼくなんかの年代は、少し上の世代の、全く不毛でそれ自体を目的としているだけような議論や喧嘩がやたらと好きなおっさんたちにほとほとうんざりさせられているので、いわゆる「共闘」のようなものには著しく懐疑的な訳だし。人と喧嘩している暇や体力があったら、それを自分の作品をつくることに使いたいと思うような、「職人気質」な体質だったりするのだ。しかし実は、そのような体質であることが、現在のあまりに悲惨な現状を結果的に容認することになってしまい、歯止めのなく崩壊してしゆくようにもみえる現状を助長してしまっていることになるのではないか、ということは皆薄々気がついてはいるのだ。確かに、セザンヌのように、あるいはフラ・アンジェリコのように、「仕事の犬」でいることができればそれは理想的なのだが、しかし現状ではそのようなものを目指すことが何か重要なことを誤摩化してしまうことになるのではないだろうか。
ぼくは現在の美術にもっとも足りないのは「言葉」だと思う。そこではあまりにも、まともな言葉が交わされなさすぎる。物凄い作品に言葉は不要だというは確かにその通りだろうが、しかし、人間が何かまともなことをやろうとする場合、そこにまともな言葉がないなどということはあり得ない。きちんと誠実に作品をつくり、そして他人の作品もちゃんと受け止めようとする時に、そこに言葉の交換がなされるのは当然のことだ。批評というのは、作品を鑑定し価値判断を下し序列をつけるということではなく、作品について、あるいは世界について、出来得る限りきちんとした言葉を捜して話すということであるはずなのだ。