02/03/12

●「新潮」4月号の青山真治『Helpless』(小説)。この小説を、一体どのように読んだらいのだろうか。何とも稚拙な小説だと言って切り捨ててしまうこともできるし、小説について真剣に考えているような人なら当然そうすべきだろう。いかにも中上かぶれの文章が恥ずかしいし、どうせ中上の真似っこならずっとそれで通せばまだいいと思うのだけど、何か部分的には松浦寿輝風だったり、阿部和重風だったりして全く腰が座っていない。前半の、語り方や視点の移動などに小説的な工夫はあるものの、ほとんど映画をそのままなぞったような、「父」や「暴力」を巡る「物語」が、後半になって、細かい、散文的な事実の検証によって批評=批判されるという構成は、前半が中上の『枯木灘』で後半が『地の果て至上の時』に相当するということなのだろうが、こういう構成は前半部分がある程度力をもっていないと成り立たないと思うのだけど、この小説の前半は全く貧弱なものなので、後半でそれが批判されても、そりゃあそうだよなあ、としか思えない。
だが、映画作家としての青山真治のある程度熱心な観客であれば、この小説から無視し難い重要な要素を読み取ることができるだろう。それは、青山氏が映画だけでなく小説も書かなければならない「必然性」とも関連しているように思う。それは、この小説にはいかにも日本の地方都市らしい、閉ざされて密着した、細かくて微妙で陰微な人間関係、ことに家族関係が丁寧に執拗に描き込まれている、という点だ。(象徴的な「父」とかいうのではなく、もっと具体的にそこにある関係としての「家族」)人物たちのまわりに蜘蛛の巣のように張り巡らされた関係の網の目の「断ち切れなさ」。つまり「Helpless」とはこの断ち切れなさのことなのだ。恐らく映画ではこの「断ち切れなさ」をここまで執拗に具体的に描き込むことは出来ないだろう。この粘着した人間関係への強い関心(つまり嫌悪と愛着)が、恐らく青山氏を小説へと向かわせているのだろうし、中上風文体の使用も、粘着した関係を描くために要請されたものなのだろう。それを考えると、ぼくが今までどうしても理解出来ないと思っていた、『ユリイカ』や『月の砂漠』における「アジール」的なものへの青山氏の傾倒や、「家族」を新しく作り直すということに関する関心も、なるほどなと思える。(この小説でも、アジール的な実験=実践の場として「間宮運送」という組織が素描されている。)狭くて閉ざされた場所に密着して住まう人々のドロドロとした関係があり、その関係が必然的に産み出してしまう物語があり、そこからどうしても「断ち切れない」こと。だが青山氏の、小説家としては幼稚な筆は、そのことをあまりに性急に描き出そうとしすぎている。