抽象表現主義と絵画の終点

●ぼくが美術に本格的に興味をもったのは抽象表現主義からで、現在でもその影響を否定するつもりはない。しかし、抽象表現主義とその周辺、つまり50年代から60年代のアメリカ型フォーマリズムの絵画や批評が、あたかもモダニズムの最終到達点であり、モダニズムの様々な問題がそこに集約されているかのような考え、つまり戦後のアメリカ型フォーマリズムを批判し乗り越えることがモダニズムの批判として有効であるような考えには納得出来ない。本当に戦後のアメリカ美術が、19世紀から20世紀初頭までのヨーロッパで起こった様々な美術における達成と同等なものと言えるのかどうかがまず疑問だ。だいたい抽象表現主義というのはかなりずるいやり方をしている。それは、画家が自らの技巧や創造性を磨くことによって作品の質を高め、偉大な作品へと至ろうという過程をすっとばして(つまり彼らには画家としての技量に自信がなかったのだ)、メタレベルにたってこういう作品こそが素晴らしいのだというゴールをあらかじめ設定し、それに自分の作品を合わせてゆくことで勝利を宣言しているという感じがある。それは言ってみれば、双六の「あがり」の位置に、ゲームの規則を無視して(サイコロをふることなく)自分で駒を置いてしまって「勝った」と言っているようなものなのではないか。勿論、「あがり」の位置を正確に測定出来たという意味では確かに偉大なのだが。グリーンバーグはバーネット・ニューマンの作品について「構想力」による絵画だと言っているが、この構想力というのはつまり、「あがり」を発見する能力のことだろう。そこでは、様々な異質な形式、異なる画家たちが、それぞれに自らの技巧を磨きつつ競い合うことで生まれてくるような、予測不可能な驚きとして、事件として生起する「芸術」はあり得ない。そして、一度「あがり」に到達してしまった画家は、自らが設定した「あがり」に閉じこめられ、一生そこから動くことが出来なくなる。
●抽象表現主義が絵画の終点を設定し、終わらせてしまった。例えば、『赤いアトリエ』(1911年)『川辺の娘たち』(1913年)『コリウールのフランス窓』『ノートルダムの眺め』『ピアノのレッスン』(全て1914年、驚くべき1914年!)などを描くことの出来たマティスなら、 当然1910年代のうちに抽象表現主義的な絵画に到達することなど容易に出来たはずだ。しかしマティスは画家としての正しい本能からそれを避け、10年代終わり頃には、マティスとしては最も趣味的で弱いとされるような作品へとシフトした。これは創造力の枯渇でも、戦争という厳しい現実に対して幸福で趣味的な地点へと逃避した訳でもなく、このまま進むと詰まらない方向へ行ってしまうという判断から、方向を変えて模索していたのだと思う。決して抽象表現主義へと行き着かなかったことで、マティスはその後、オダリスクのシリーズや晩年の切り紙絵など、再び三度、豊かで高度な達成を獲得することができたのだ。マティスは抽象表現主義のような退屈さに閉じこめられる事は決してない。そこには画家としての動物的な嗅覚があり、画家としての「仕事」への信頼がある。何もマティスに限らず、後期印象派を通過した画家ならば、このまま行くとやばい、終点にたどり着いてしまう、という感覚を皆もっていたはずだ。ここで言う終点とは、ゴール、つまり最高到達点などではなく、たんに「死」、つまりゲームオーバーのことだ。仮に、絵画というものが、豊かさや高貴さや多様さといったものを、高度な地点で視覚的に示すための言語ゲームなのだとしたら、自ら終点に身を置くことでゲームを終了させて、最終的な勝利者となることなど、少しも「勝利」ではない。世界にも人生にも言語ゲームにも、メタレベルなど成立しない。
グリーンバーグの批評とは、恐らく決して「理論的」なものではない。それは、19世紀から20世紀にヨーロッパであらわれた偉大な絵画の達成を「見ること」によって鍛えられた「趣味」によって、現代(50年代から60年代)のニューヨークで起こっている美術を見るとしたら、それをどのように評価できるのかという実践であろう。しかし、当時ほとんど美術の伝統が存在しなかった(趣味が共有されていなかった)アメリカという場所で、それを他人に対して説得力を持って示すためには、形式的な理論が必要とされたのだろう。(それは批評家だけでなく作家も同じで、まともに「美術」が成立していない場所で自分の作品の正当性を主張しようとすれば、否応なく理屈っぽくなるしかない。)作品は理論によって評価される訳ではなく趣味によって評価されるのだが、それは理論的に記述されるしかない。そこで示される「理論」とは恐らく相当場当たり的なものであったはずだ。例えば「かげろうのようにたちあがる純粋な視覚性」とか、絵画の本質は「平面性と平面性の限界づけ」の二つだけであるとか、そういうのは理論的な根拠づけのために言われたというより、ほとんどカッコイイ決めのフレーズのようなものではないだろうか。グリーンバーグのテキストにはあきらかに危険な本質主義があるのかも知れないが、それはグリーンバーグの趣味とは異なっているだろう。フリードはリテラリズムの芸術を批判し、カロのように純粋な「身振り」だけが見えてくるような作品を評価するのだが、グリーンバーグも、その理論をリテラルに読むのではなく、その「身振り」こそが読まれるべきではないか。例えば、グリーンバーグ本質主義が拡大解釈されて、絵画の本質は「平面性と平面性の限界づけ」の二つだけに還元され、だから「何も描かれていないカンバスも絵画として経験される」のだが、それは必ずしも「成功した」絵画ではない、と書かれたものをそのまま生真面目に読みとり、ならば何も描かれていないカンバスそのもので、かつ、成功した絵画であるにはどうしたらよいか、という問題が設定されると、そこには自然とミニマリズムという解が与えられてしまう。(しかしそれはグリーンバーグ的な趣味とは全く違う。)フリードがミニマリズム=リテラリズムを強く批判しなければならなかったのは、それがグリーンバーグをまさにリテラルに読むことから生まれてきたものだからではないだろうか。そういう本質主義はいいかげん抽象表現主義で終わりにしようよ、そんなの「終わり」の後の廃墟みたいなもんだよ、君たちは結論を急ぐあまりに美術史のもつ多様な豊かさを見失っている、そういうのじゃなくて、もっと豊かな言語ゲームが成り立つような美術をやろうよ、と言うことではなかったか。
ジャクソン・ポロックの作品が、本当にそんなに凄いものであるのかという点については、ぼくとしてはちょっと保留が必要だと思うのだが、しかし、ポロックが抽象表現主義の画家たちのなかで最も愚直に画家であり、ほとんど動物的なまでの画家としての嗅覚を最後まで見失わなかった人だという点で、最も尊敬に値すると思う。基本的に不器用で、画面を明暗の対比としてしか捉えることの出来ないポロックは、ニューマンのように一足飛びに「結論」に達してしまうこともなく、ロスコのように完成された形式に閉じこめられてしまうこともなく、一歩一歩着実に技量を磨いて行くことで前進していったと思う。純粋に色相の関係によって制作することこそが新しく真正な絵画であり、キュービズムのように明暗の対比に頼ることは不純で古くさいこととされていた当時の状況のなかで、明暗の対比をどのように克服するかがポロックの中心的な課題であったことは確かだろう。ポロックはそれを、複雑にうねる複数の線を交錯させ絡み合わせることで、明滅するような明暗の細かな対比をまさに「霧」のように画面全体に行き渡らせて、それによって明暗の対比がたんに明暗の対比であることを越える、ということで実現した。事後的にオールオーヴァーと呼ばれることになるこの状態は、しかし初めからオールオーヴァーであることがめざされていた訳ではない。それは決して方向が定まっているとは言えない一枚一枚の制作という実践=実験の積み重ねによって、様々な寄り道や逡巡を経てたどり着いたものだ。いや、寄り道や逡巡と言ってしまうと、それらはたんなる目的のための「過程」となってしまうだろう。そうではなくて、その一枚一枚が過程であると同時にある結果であり目的であるようなものなのだ。だから、完成されたオールオーヴァーという形式もまた、それは目的であると同時に過程でしかないのだ。(だからルイスのように、作品の形式が完成したから言って、完成する以前の作品を全て廃棄してしまうなんてことは絶対しないだろう。)多くの抽象表現主義の作家たちが、一旦形式的に完成してしまうと、あとはその質をどのように「維持」してゆくかということだけが問題になるのに対して、ポロックの制作は常に過程であり、だから動き続けた。たとえ、オールオーヴァー以降の作品が決して質の高いものではなかったにしても、行き詰まりからアル中になり限りなく自殺に近い交通事故で若くして死んでしまったにしても、その方がずっと画家として健康であると思う。ポロックは自分の仕事を信頼していたからこそ行き詰まったのだ。だから決して、サイコロも振らずに「構想力」によって「あがり」の位置に駒を置いたりはしない。