佐藤友哉『フリッカー式』

佐藤友哉の『フリッカー式』を読んだ。出だしから、全体の約2/3くらいまでは全く面白くなかった。たんに幼稚で稚拙で青臭いというだけでなく、かなりはっきりと不快で、こんな本を読み始めてしまったことを後悔しつつ読みすすんだ。『エナメルを塗った魂の比重』を多少なりとも面白いと感じてしまった自分の判断は間違っていたと思われた。しかし物語が終盤に差し掛かると、話は面白くも何ともないし、文章も耐え難く稚拙であるにも関わらず、強引に引っ張り込まれるように流れに巻き込まれてしまい、やはりこの作家には不思議な「筆力」のようなものがあるのだと感じた。クライマックスとも言うべき、血みどろのアクションシーンにはいるすこし手前くらいから、何とも言えないドライブ感が生じて、その勢いのままにクライマックスから「謎解き」の場面にまで一気に雪崩れ込む。この作家は、描写や場面の作り方など、物語を構成する要素を造形する力という点では、問題外とも言える程に稚拙だが、その稚拙なパーツ同士を組み立てる構築力や、面白くも何ともない話に読者を引き込んでゆく「語りの力」という点では天性とも言える才能があるのではないかと思える。例えて言えば、野球を全く知らないし、技術も未熟なのだが、やたらと「地肩」の強いピッチャーみたいな。この小説を作品として肯定することはちょっと出来ないけど、この才能はやはり「買い」かもしれない。この作家からは、一旦小説を書くことをやめて、10年くらい全然別のことをやったり、いろいろ本を読んだり、あるいは世界を放浪したり(いや、マジで)すれば、かなりの作家になるかもしれない、という大きさが感じられる。と、思いながらクライマックスを通り過ぎ、そして物語は、ドライブがかかったまま、あいた口が塞がらないと言うしかないような「謎解き」のパートへと突入してゆく。人が「くだらないことをしよう」と思ってする「くだらなさ」はだいたいたかが知れている。本人は思いきりバカをやっているつもりでも、人が創造出来るバカなど、想像可能な範囲を超えることはめったにない。そういうくだらなさは、たんにくだらないだけだ。しかし『フリッカー式』の謎解きの馬鹿馬鹿しさは、たんなるくだらなさの閾値を越えた強度にまで達していると思われる。小説というものがここまで本当に「ジャンク」なものにまで達する(堕する)ことは稀なのではないだろうか。ぼくは基本的には、作品というものが「ジャンク」であろうとすることに対しては懐疑的で、駄目なものはたんに駄目であるに過ぎないと思っている。(ジャンク系のアートとかって、本当に最低だし。)しかしそれがここまで徹底していると、笑いがこみあげ、何か嬉しくさえなってくるのだ。無意味にテンションが高く、そのテンションの高さが全て、まったくのくだらない徒労に捧げられている。あまりにクズで、あまりにくだらなく、あまりに何もなく、あまりに絶望的なので、それら全てを「こういうものなのだ」と肯定し、ただ笑うしかない。もし世界が本当にこんなんだったら、一体どうするよ、とつぶやき、やけっぱちと裏腹の躁状態で、ククククッ、と笑うのだ。(しかし、終盤に差し掛かっての物語のドライブ感や、謎解き部分の強度に満ちたくだらなさは、その前にある、この小説の大部分を占める、幼稚で冗長で退屈な、たんに「くだらない」部分の積み重ねがあってはじめて成り立つようなものなのだ。この作家は珍しい「構築するジャンク系」、構築によってジャンクに到達する作家なのだと言える。しかし、この小説のほとんどを占めるたんに「下らない」部分を読みすすんでゆくのには、やはり相当な忍耐と寛容さが必要なのだった。)