昨日に関連して、少し。フリード『芸術と客体性』とか

(昨日に関連して、少し。)
マイケル・フリードの『芸術と客体性』というテキストは、非常に魅力的でありかつ難解である。部分的には明快で説得力に富み、部分的には錯綜している。そこでフリードは自らが敵としているリテラリズム=ミニマリズムの作品に対する鋭い分析を行っているのだが、ではなぜ、そのような作品が駄目なのかということについては、ほとんど、とにかくそういうものは駄目なのだ、としか言っていない。そこではミニマリズムの作品とモダニズムの作品(例えばカロ)から受ける印象の違いを人体を比喩として、とても(感覚的で)的確に示してある。我々は、ミニマリズムの作品に接する時は、まるで他者と向かい合って、他者によって立ち塞がれているような圧迫を感じるのだが、モダニズムの作品の最良のもの(例えばカロの作品)に触れる時は、他者の魅力的な身振りをたまたま目撃した時のような感じを受けるのだ、と。「ジェスチャーを模倣するのではなく、ジェスチャーの効能を模倣すること」という言い方でカロについて言っているのは、ジェスチャーが魅力的であるため、そのジェスチャーを行った当の身体そのものは印象に残らず、ただジェスチャーのみが純粋に浮かび上がるような状態ということだ。対して、ミニマリズムの作品は、立ちふさがるという身振りによって、逆に身体の物質的な(リテラルな)存在を強調する。その時にあらわれる物質的な存在とは、いわゆる「存在そのものが露呈する」というのものではなく、たんに「立ちふさがる」という安っぽい「演出」の効果(あらかじめ観客を想定した演出をフリードは「演劇的」と言っている)によってたちあがるものに過ぎない(だからそれは「客体」ではなく「客体性」なのだ)、ということだ。演劇性という言葉の唐突な使い方に問題はあるとしても、ここまでの分析は鋭利なもので説得力があると言える。だが、ならば何故演劇的な演出による「存在」の強調が駄目なのかという理由は、ただ、過去に「モダニズムの芸術」と言われてきたものたちのなかで、「良いもの」とされている作品、そして「私」も良いものと確信出来る作品は、決してそのようなものであったためしがないからだ、という答えしかないのだ。だが実はこの点にこそ、アメリカ型フォーマリズムの批評の全てがかけられていると思う。ここが、アメリカ型フォーマリズムの面白い点であり、限界でもある。(フリードの言う「約定」と「確信」という問題はここに関わってくる。)つまり、クールベ。マネ、モネ、セザンヌマティス、というような流れのモダニズムの美術史として描かれているものを「正しいもの」と仮定するとしたら(その仮定を正しいと確信出来るならば)、その延長線上のものとして、現在作られている作品をどのように評価することが出来るのか、と言う姿勢なのだ。ここでは、「芸術」というものは展開するゲームであり、絶対的な正しさなどはじめから求められていない。(その時、批評は評価ではなくゲームへの「介入」となるだろう。)例えば「趣味」という判断装置が有効なのも、それが歴史的な価値基準が身体化したものとしてあるからだろう。それは過去を使って現在を読むだけでなく、現在によって過去を読み替える装置でもある。グリーンバーグ風のメディウム・スペシフィックな批評原理というものも、そのような姿勢の(あるいは「趣味」の)結果として生じたもので、メディウム・スペシフィックであることが絶対に正しいという理由などどこにもない。芸術というゲームに絶対的な正しいルールはなく、多様な展開が許されるが、しかしそれは「趣味」によって暫定的に良し悪しを決めることが出来るというわけだ。(つまりそれって実は、「フォーマリスム」ではないのではないか?)
●しかし、フリードが「ともかく演劇的なものは駄目なのだ」と言っている理由はもうひとつある。それは、演劇的なものとは結局、我々の日常の延長でしかあり得ないからだ、ということだ。対して、モダニズムの(最良の)作品(のみ)が、日常(=リテラリズム)を越えて「恩寵」と成り得るのだ、と。(ここでは一転して「芸術」に対するブラトニズムが顔を出す。)ここでフリードが演劇性によって堕落した芸術家としてジョン・ケージを挙げているのは興味深い。(フリードによる「演劇性」という考えには、当時のハプニングやキャンプといった感覚への強い反感が貼り付いている。しかしそこには直接言及しない。そこにはモダニズムの「堕落」や「崩壊」があるのではなく、モダニズムが「無い」からだ。)ぼくはケージの作品については詳しくないのだが、『小鳥たちのために』のような本を読むと、ケージのやろうとしていたことは、我々の日常生活の全てを隅々まで芸術として組織することだと読める。つまり、あらゆることがらを芸術と化することで、モダニズム的な特権的な瞬間に訪れる「芸術=恩寵」を消失させてしまおうとする。(それはモダニズム的ハイアートを受容する社会的な階層としての特権階級の消失をも目論むものだろう。)これはフリードとは全く逆の立場だろう。しかし実際に『芸術と客体性』において批判されているミニマリズムの芸術家たちは、ケージほどの徹底性や革新性はもっていない。それは中途半端にケージ的であり、中途半端にモダニズム的であるのだ。フリードの批判も実はその中途半端さにこそ集中しているように読める。つまりミニマリズムの作品は、モダニズムの作品ほど厳しく「恩寵」を追求してもいないし、ケージほどの過激さで全てを日常のなかへと解体しようとするのでもなく、半端な演劇的演出で、空虚な物体でしかないものを、やたらと「神秘めかして」みせるのだ、と。
●『芸術と客体性』のリテラリズム=ミニマリズム批判を読んでいると、ぼくにはどうしてもそれがバーネット・ニューマン批判に読めてしまうのだ。このテキストで批判されているミニマリストとニューマンとの違いとは、たんにニューマンがギリギリのところで「絵画」に踏みとどまっている、ということ以外には何もないように思えてくる。ニューマンの作品は、明らかに観客をその内側に招き入れ、あるいは対峙させるものだ。そして、ニューマンの作品は限りなく事物(フリードの言う「客体性」)へと近づいていながら、画面の内部に最小限のイリュージョン(ジップ!)を有していることから、ギリギリのところで(モダニズム的な)絵画として成立しているだけだ。もっと端的に言ってしまえば、ニューマンの作品に「ギリギリの絵画」という以上の意味ってあるのだろうか、ということ。(抽象表現主義によって美術をはじめたぼくにとって、こんなことを言うのは天に向かって唾を吐くようなものなのだが...)ニューマンの作品こそが、「何もない空虚な事物」でしかないものを、最小限のイリュージョン=ジップという魔術めいた演出によって外部から意味を充填させ「神秘めかして」みせているだけの、諸悪の根元なのではなか。ニューマンの作品こそ、あの「深夜のハイウェイ」そのものではないか。『芸術と客体性』を読んでいると、フリードがそう言っているように思えてならないのだ。(フリードのテキストを多く読んでいるわけではないので、フリードがニューマンについて直接どのように言及しているのかは知らないが、アンソニー・カロや不整多角形シリーズのフランク・ステラなどを評価するフリードが、ニューマンを好きだとはあまり思えない。)
●何かと思えば、たかが「ニューマンって実はたいしたことないよね」というだけのことを言うために、こんなにだらだらと回りくどく書かなければならないのかと多くの人は呆れるだろうが、少なくともモダニズム的な絵画を意識する者にとっては、ニューマンというのはそれくらい強力な存在であるのだ。そして、そのような者にとって『芸術と客体性』はとても励みになるというか、勇気の沸くテキストである。これみよがしに「モダニズム神話の解体」を目論むロザリンド・クラウスよりも、ずっと深くじわじわと効いてくる。(クラウスだって、冴えた皮肉として読めばとても面白いけど。)