『悔いあらためて』(橋本治・糸井重里)

●昔話みたくなっちゃうのは嫌なのだが、『悔いあらためて』という80年に出た橋本治糸井重里の対談の本があって、ふと思い立ってパラパラめくり返してみたのだが、いきなり冒頭からの素晴らしさにガツンとやられたのだった。ここで若き日の橋本治は、自分がいかに社会に上手く適応できないか、他人から理解されないかを語り、それに対し糸井重里は、その話を最大限の愛情とともに理解し受け取りながらも、冷酷ともいうべき的確な答えを返して行く。このやり取りを読むと、ああこれが「友情」なのだなあと泣きそうにさえなる。橋本氏が、子供の頃真剣に何かを話すときまって「屁理屈を言うな」と言われて、何で真剣に話すと屁理屈って怒られるのか分からないままそれを自分のなかに引っ込めてしまったと話すと、糸井氏はそれに対し、屁理屈って言われるのはそれに「反応してくれない人」がいるからで、「反応してくれる友達」がいればそれは「遊び道具」になると答える。つづけて橋本氏が、昔は(楽しい)屁理屈ごっこをするのに2人必要だったけど、今は一人で「両方できる」から一人でも楽しい、と言うと、糸井氏は、すごいねえ、と応じながらも、それは統合できるようになったのが先なのか、それとも友達がいなくなったのが先なのか、と突っ込む。橋本氏が、ぼくは道を歩いていても好意というものに会ったことがない、と言うと、糸井氏は、好意ってのは「誤解」のものだから、こっちが好意だと思えば好意なのだ、と答える。橋本氏が、例えば不動産屋で部屋を借りるようなシュチュエーションで、相手が全く自分と相容れないような爺さんだった時に、その不動産屋を前にして社会的な自分を演じるのがとても辛い、その時に相手の悪意に突然立ち塞がれるのがこわい、という話をすると、それに対して糸井氏は、《大体悪意の源ってのはさ、相手の方がね、自分が不幸だったりとかさ、何か理由があるわけ。するとさ、俺はもうちょっと橋本さんより冷たいのかもしんないけどもさ、もう割り引いちゃうのね。》《自分もそっちの方に座るとね、そうするかもしれないくらいのさ、楽な気持ちがあるわけね。そうですか、僕はこういうところに勤めておりましてって、やってて楽しいの。》これに対し橋本氏は、自分はそれを楽しいとは全く思えないけど、そこから逃げるのも嫌なので、「ちゃんと今そういうことを訓練してやらなければいけない」と自分に言い聞かせてやるのだ、と。それに対して糸井氏は、それじゃ「毎日が辛いねー」、と。ここには橋本治という「作家」の核にあるような堅い固有性と、当時の糸井重里の驚くべきやわらかな聡明さとの、うつくしい出会いがあると思える。
●しかし当時のこの糸井重里の聡明さというのは何なのだろう。この才能は当時から作家(コピーライター)としてのものというよりも明らかにプロデューサーとかオーガナイザーのようなものとして発揮されたのだろう。しかしそれは、80年代には「編集」という言葉が流行り、90年代になって「プロデュース」というような言い方にかわって行くような、何か政治や策略を好む「野心家」ような人たちのものとは少し異なっているように思う。確か「宝島」か何かのインタビューで糸井氏が、自分は電車でたまたま隣り合ったおじさんとかとすぐに仲良くなってしまう特技があって、貧乏な頃はそういう人から仕事をもらったりもした、と言っていたのを読んだ(強く印象に残っているのだが、遥か遠い)記憶がある。つまり糸井氏の聡明さとは、基本的には「好きな事(楽しい事)」をやっているのだが、それをしっかりと(ちゃっかりと)抜け目無く「お金」と結びつけてしまうとか、あるいは、普通だったらあり得ない結びつきを易々と実現してしまったりする(そしてそれをちゃんと「お金」にする筋道を、つまり現実に着地させる筋道を、考える)とか、そういうものとして発揮されるような、鷹揚さやおおらかさと、冷酷さとを併せ持ったような聡明さなのだろう。これは、「徒党を組む」ことと「ケンカをする」ことが大好きな「男の子たち」に最も欠けている聡明さであり、同時に、社交性に欠け、ひきこもりがちで、その足りない分を「自分だけの孤独なの努力(過剰な言語化や体系化、あるいは作品の制作など)」で埋めてしまおうとする(当時の橋本氏のような、そして恐らくぼくのような)人たちにも、決定的に欠けている聡明さなのだろう。つまりそれは、「文化」とか「芸術」とかに関わる(それを好む)多くの人たちに欠けているということだろうと思う。だとしたら、このような資質を持つ「おおらかな媒介者」とも言うべき人こそが、最も生産的な仕事を生む(土壌をつくる)のかもしれない。