野上亨介『レッドレッドリバー』

早稲田大学七号館会議室で、野上亨介『レッドレッドリバー』の上映を観た。(この映画には、ぼくのドローイングが何カットか使われているのだった。)ぼくは野上さんの映画を今まで何本か観ていて、二年くらい前にアテネフランセでやった上映会のパンフレットに文章を書いたりもしているのだけど、この『レッドレッドリバー』が一番好きだ。まず、ぼくが知っている限りで、映画のなかでこんなに普通に「人が話している」のを他ではあまりみた憶えがない。この映画では、いくつかの主題が、それらが互いにどの程度関係しているのかがよくわからないまま並列的に進行し、意外なところで重なったりもするけど、最後まで緊密な関係に収斂してゆくことなく(ひとつの相関図のようなものを描くことはなく)、バラバラなままで終わる。そのいくつかの主題のうちの一つに、飛田愛という女性と矢部史郎(あの「愛と暴力の現代思想」の矢部史郎さんです)とが話すパートがある。飛田氏が、自分について(自分のなかの空虚について)、ぽつぽつりと語り、それに対し矢部氏が、とてもやさしげに、しかし時にかなりきつい言葉を返してゆく。このパートはゴダールの『女と男のいる舗道』での、アンナ・カリーナと何とか言う哲学者との対話のシーンを思わせもするけど、ゴダールの映画では、まるでアンナ・カリーナ自身が語っているようにみえながら(おそらく実際にアンナ・カリーナは自分の言葉で自分の考えを語っているのだろう)、同時に映画のなかの虚構の人物(ナナ)の言葉でもある。ゴダールの映画では、ナマな存在としてのアンナ・カリーナが、ナナという女性が動いている虚構の次元を常に危うくすると言えるのだが、それは逆に言えば、ナナのいる虚構の世界が成り立っているからこそ、それが揺らぐことによって「ナマのアンナ・カリーナ」のなまなましさが「効果」として生まれる、ともいえる。それに対し『レッドレッドリバー』では、「虚構の次元」を媒介とせずに、ただ普通に話している二人がいて、それが撮影されている。しかしそれは、例えば喫茶店で話している二人をどこかから隠し撮りしているというようなものとは違う。ここには、二人の人物が「普通に話している」という場面を、映画はどのようにして撮ることが出来るか、ということが問われているように思う。人がただたんに話している表情を、どのようなフレームで、どのような光りの状態で、どのようなカメラの動きで捉えれば、上映されたスクリーンの上に「人がただ話している」状態があらわれるのか、と。そしてそのような状態をつくるには、まずこの二人をどんな状態で、どんな場所で(映画としてではなく、実際に)「会わせればよいのか」、ということまで含めて(そこからはじまってはじめて)、この映画の「ただ、たんに話す」シーンが出来上がっていると思う。
この映画は三十分ちょっとの作品なので、二人が話しているパートも、そんなに長く映し出されるわけではない。しかし、このパートを観ていると、実際にこの二人はかなり長い時間話していて、それがずっと撮影されていて、そのなかのほんの一部分が使われているのだということが分る。初対面の二人が共通の知人(監督)を介してはじめて会い、最初は互いに自己紹介などをして、差し障りのない一般的な話などをしつつ、次第に、躊躇しつつ、途切れがちに飛田氏が自分の話をしはじめる。そして、時間が流れるにつけ、多少はリラックスした、ほぐれた話し方や表情になってゆく(という過程がおそらくあったのだろう)。監督はその流れの全てを、撮影に使われた部屋の光りの状態をみつつ、二人の位置の微調整なんかを指示しつつ、カメラにおさめていて、その長時間の映像のなかからしかるべき部分が選ばれているのだろう。(それは、たんに対談を録画しただけでもないし、映画のためになされた対談というのでもない、映画のためでもあるのと同時に、ただたんに人と人とが会ったということでもある、という状態のなだと思う。)この映画の飛田氏や矢部氏の表情は、そのようにしてしか捉えられないもののように思える。それは、なにもこのパートだけの話ではなく、この映画の全てのパートが、その背後に膨大な「撮影されたけど使われていない時間」が存在していることを感じさせるような厚みと広がりがある。だからこれは、長い時間カメラを回し続けられるビデオによってこそ可能になった映画で、フィルムではこのようには撮ることが出来ないものだと思える。(つまり、ある決定的な瞬間をつくるべく演出=お膳立てして、その決定的な瞬間を狙ってカメラを回すというようなフィルム的な時間とは根本的に違って、ある過程の全てをビデオカメラに納め、そのなかの決して「決定的」というわけではない(ごく普通の)時間=瞬間を選びだしつつ映画を構築し、その「あたりまえの時間」を重ねる事によって、それ以外の撮影に費やされた膨大な時間の集積の全体を感じさせるのだ。)
●この映画では、登場人物のすべてが魅力的に撮られている。魅力的というのは、とても普通に画面のなかに居る、ということだ。この映画には、飛田愛、可能涼介、矢部史郎という三人の人物が出て来るのだが、その三人が本当に普通にただ「その人」として画面のなかにいるように感じられる。(可能氏は全編ただ傘をさして歩いているだけなのだが、その歩く姿勢の猫背の感じとか、時々カメラの方をチラッと見る時の視線とか、すごく普通な感じなのだ。)特に矢部氏は、この映画を観たほとんど全ての人が好意を持ってしまうのではないかと思えるほどだ。飛田氏の話をじっくりと聞いて、短いけど的確な応えを返し、時にかなりきついことをサラッと言うのだが、それが少しも威圧的ではない。おっさんが若者と話す時の理想的な姿にみえる。見栄えがよいというか、ルックスもかなりかっこいいし。(ただ飛田氏に対してだけは、監督の女優への思い入れからなのか、映画の最初の方にちょっと、いかにも「映画的」に魅力的に撮ろうとしているショットがいくつかある。それはそれで良いのだけど。)
●野上さんは、この『レッドレッドリバー』の長編バージョンもつくるつもりらしい。それも、今まで撮影されたものを再編集することで長編化するのではなくて、三十分バージョンが作業途中での経過報告であるような感じで、さらに撮影を継続して、全体をつくり直すような作業をして、長編化することを考えているそうだ。