橋本治『生きる歓び』

●昨年末に読んだ『蝶のゆくえ』(橋本治)がすばらしかった(1月2日の日記参照)ので、『生きる歓び』を読み返した。『蝶のゆくえ』は一日で読んでしまったのだが、『生きる歓び』は何日もかけで、一編ずつじっくりと読んだ。
●『生きる歓び』に収録されている短編がたちあげようとしているのは、人の生のなかのある特定の瞬間であり、その瞬間にふっと洩れた言葉であり、その瞬間に生じた(身体において働いている様々なシステム全ての恊働による効果として生じる)感情であろう。そしてその特権的な一瞬の状態を浮かび上がらせるために、言葉は理路整然と積み上げられ、文学的な隠喩の正しい作動がもくろまれる。論理的・分析的な記述と、正しい隠喩の作動によって構築されているという点で、これらの小説においては「正しい言葉の使用法」が信じられており、正しく言葉や論理を使用することによってはじめて、ある特定の「瞬間」が捕まえられると信じられている点で、きわめてオーソドックスで古くさいとも言える小説集だろう。言葉の「正しい機能」が壊れているという前提からはじまる現代小説を読み慣れている目からすると返って新鮮に感じられる程の丁寧な記述をじっくりと追ってゆくと、ある場面でふいに、場面としてはありふれてはいるが、論理的・分析的な言葉のよる記述では納まらないような、ある特権的な瞬間の「実質」のようなものにぶち当たり、そこで「人生」と(いうような陳腐な言い方で)しか言いようのない圧倒的なリアリティがたちあがり、それが的確な比喩(「あんぱん」とか「みしん」とかいう物)によって形象化され、回収される。この機能が上手く作動しない時、分析的・論理的な記述はたんに状況説明か辻褄合わせのようにみえてしまい、隠喩はあまりに安易な「オチ」にみえてしまうこともある(例えば『どかん』において)だろう。だが、ほとんどの作品においてこの機能は有効に作動していて、「決め」の場面に遭遇すると、そこにはまさに「人生の真実」が語られているように感じられ、ぐっとくるのだ。
●以上のようなきわめて規範的と言うか、反動的とも言える形式によって成立している小説たちが、わざとらしさや古臭さをほとんど感じさせす、逆に(その規範性によって)「私」(あるいは言語)という現象が決して閉じ切る事が出来ず「底が抜けている」ものだという感触をありありと浮かび上がらせることが出来ているのは、恐らくそこに人生の「実質」と言うしかないような何ものか(内容)が確かに描き込まれているからだろう。規範的な形式が、決して規範的に閉じてはしまわないのだ。つまりこれらの小説では、規範的な構築性によって、既成のものとしては「かたち」のないものに「かたち」を与えようとしているのだと思う。
●例えば、この本に収録された小説のうちのいくつかは、「中年男性の感情」を描き出している。恐らく(少なくとも日本において)中年男性がその感情を「感情」として認識し、表出するための「形式」はきわめて貧しいものしかない。決して感情(あるいは感情となることを求める何かしらのノイズのようなもの)が「おっさん」において発生しないわけではないはずなのだが、それを外へと表出し、あるいは表出しないまでも、感情を感情として自分自身で認識するために、感情(感情になる手前の何か)に「形を与えるもの」のバリエーションがあまりにも貧しいのだと思う。この事実がおっさんを「おっさん」化させ、鬱屈させ、重苦しくさせ、腐らせてゆくのだ。単純に言えば、おっさんはどのようにして「寂しい」と言えばよいのか、いや、どのように「寂しい」と感じればよいのかさえも分からないのだ。(だから自分が寂しいと感じていることすら気がつかない。)『にんじん』や『きりん』が、その丁寧で(かつ容赦のない)観察と分析によって描きだしているのは、まさにそのような「感情」であり、その作品によってかたちのない感情に「かたち」を与えようとしているのだ。
『にんじん』では、橋本氏が(そしてその読者も)決して「好感」を持つ事などないだろうと思われる「おっさん」の感情が、これもまた全く魅力を欠いたその娘とのちょっとした行き違いの場面を通して描かれている。このおっさんは、人がうんざりするしかないような(本人だけがウケていると勘違いしている)「何故にんじんが嫌いかという講釈」によってしか「寂しい」という表現をすることが出来ないし、その(娘がつくった)大嫌いなにんじん入りの炒飯を、大嫌いなのにも関わらず食べてしまうという行為によってしか「寂しさ」をやり過ごす方法を知らない。くり返すが、小説の記述は甘さや思い入れを排した容赦のないものであり、読者は決してこのおっさんに好意を持つ事は出来ず、間違っても「カワイイ」などとは思えないのだが、そのようなおっさんにも「寂しい」という感情はあり、その感情を表現し、認識する「かたち」が不在であることこそが、そのおっさんを嫌な奴にさせている原因でもあるかも知れないのだという事実が、この小説からは圧倒的なリアリティでたちあがってくる。(勿論これは、他人事ではない。)このリアリティによってはじめて、決して好感をもつことの出来ない人物の「生」を、好き嫌いとは別の場所で肯定することが出来るのだと思う。(「正しい」ことにしか興味のないような人には、是非この小説を読んで頂きたい。)
『きりん』では、自分が同性愛者であることと、実際の具体的な人間関係のあり方との折り合いをつけられないままに30歳を過ぎてしまった男の、「初恋」とでも言うべき微妙な年下の男性との関係が、きわめて繊細に描かれている。いい歳をした男性にとって恋愛が困難なのは、ある年齢を越した男性の欲望(それは「寂しい」というような他者を求める欲望=感情であるとともに、性的な欲望でもあり、おそらく恋愛はこの二つをごっちゃにすることで成り立つ)と「恋愛」という形式とが全く釣り合ってはいないからだろう。だからといって「欲望」そのものがなくなるわけでもないので、多くの男性は(いわゆる男性中心の社会のなかで伝統的にくり返されていた)既成の様々な「しきたり」にしたがって欲望(寂しさ)を解消しようとするだろう。(逆に言えばその「しきたり」の存在こそが、男性の感情や欲望を貧しくするのだが。)だが、同性愛者であり、同性愛者同士のコミュニティとも無縁であるこの小説の登場人物においては、みずからの欲望によって他者と関係する時に、お手本となるような「かたち(しきたり)」が存在せず、関係は相手や状況に応じてその都度全く新たなものとして構築されるしかない。自分に好意を持っていることはあきらかだと思われるのだが、相手には女性の恋人もいて、その「好意」がどのような質ものであるのか確信をもてない男と、男の職場に派遣されてやってきた年下の男とが、互いに相手との関係を確定できない手探りのままで、一泊の温泉旅行に出かける様を、あくまで繊細でありながらも冷めた分析的な記述によって描くこの小説は、「かたち」の無さが強いる関係の不安定さ(持続の困難)を容赦なく記述するとともに、しかしその一瞬だけ成り立つ関係の美しさを、田舎の寂れた「サファリパーク」で草を食べるきりんの姿と、「でも、きりんてバカだねェ」という台詞によって鮮やかに立ち上げる。