●もう一度改めて野水陽介の「後悔さきにたたず」(「群像」六月号)を読んだのだが、やはり相当に面白いと思う。流れが淀むようなところが何カ所かあるようには思うけど、それ以外は、これはこのように書かれなければならなかったという必然性に、正確に忠実に書かれているように思われる(しかしそのような「必然性」は、これがこのように書かれた後に、事後的に生まれるのだと思う、それこそが作品の創造性なのだ)。作中の人物サクライの行動がそうであるのと同様に、作中の人物の行動を描く語り手(書き手)もまた、その記述-行動は厳密にある原理に従っているようにみえるのだが(つまり、選評で長嶋有が書いている通り、ここでは二重の原理-規範が作動している)、しかし、では、その原理とは一体どのようなものかと問われれば、それはこのようなものだと「小説全体」を示すしかない、というような作品。作中でその厳密な原理が揺らぐのはおそらく一度だけで、それはコンビニ店内でいきなり気絶してしまう客に対する感情と態度が示される場面であろう。そして、この場面こそが(ここで揺らぎが含まれていることが)、この奇妙な文の連なりを小説たらしめているのかもしれない(それに比べれば、コンビニ前で若者たちが暴れる場面ではまだ原理が厳密に作動している)。
「これはこのようにして書かれなければならなかったという必然性」に従っているように感じられるということは、つまり、小説とは一般的にこのような形で書かれるものだという「書き方」の方には、はじめからおわりまで、おそらく一度も流れてしまったところがない、ということだと思う。これは、これだけで相当にすごいことだと思われる。小説は一般的にこのように書かれるものだから、このように書く(あるいはそれに抗ってそのようには書かない)ではなく、「これ」は(この作品に限っては)、このように書かれなければならなかったから、結果としてこうなった、こうなる以外になかった、という風に書かれているのだと思う。そして、それだからこそ、この文の連なりが結果として「小説」として成立した。この作品では起こっているのは、そのような出来事なのだと思う。
繰り返すが、これは、それだけで相当にすごいことで、もしかするとそれは、デビュー作という特権的な一作にのみ許されていることかもしれないのだ(二作目以降は、少なくとも、自分の書いた前作との比較ということがどうしても出てきてしまうだろう)。だから、この小説を読むということは、そのような特別な瞬間に立ち会うということでもあると思うのだ。