02/01/13

●若林奮/前田英樹『対論・彫刻空間』をパラパラめくっていた。ぼくは基本的に前田氏に対しては批判的だ。ほとんど許しがたいと思える時すらしばしばある。前田氏の話が、「全体」だとか「自然」だとか「本質」だとか「存在」だとか「目的」だとかいう言葉に収束されてゆく時、そこには本当にいやーな臭いが漂う感じがする。しかしその一方で、個々の細かい指摘などを読む時、ああこの人は本当に絵画が分かってるんだなあ、と思い知らされもする。例えばこの本で、マティスにおける線と色彩の関係について、アングルと比較しながら、マティスの絵画においては、線によるデッサンによって「外」との関連を持ち、色彩はむしろそれと相反するように自律的に使用されている、と語る時、その切り込みの鋭さと受容の繊細さ的確さには脱帽せざるを得ないだろう。美術批評家もこのくらい絵が分かっていてくれたらなあ、なんていう愚痴が思わず出てしまうくらいだ。ぼくは、前田氏のセザンヌに関する評価、セザンヌは自然が存在するという確信を描いている、みたいな話を、ほとんど受け入れることは出来ないのだけど、それでも前田氏のセザンヌについての本が、とても重要で刺激的であることは認めざるをえないとは思う。でも前田氏の場合、そのような個々の指摘の鋭さが、結局、「画家の本質」「絵画の本質」あるいは、「自然」や「存在」への「信頼」という話に、いつの間にかするすると収斂されてしまうので、それはちょっと待ってくれ、といいたくなる。「記号の存在論」という独自の概念を使用する前田氏に欠けているのは、おそらく実際の「社会的な空間」に対する認識なのではないだろうか。つまり、複数の他者がざわめいていて、決してその全体を一望できる視点などあり得ないような空間。そのような場所では、どのような理解、どのような判断も常に限定された視点からのもの、暫定的なものであるしかなく、つまりそこでは「全体」や「本質」など成り立たない。あらゆる「記号」が常に他者に関わるものであり、時間のなかで作用するものである以上、その意味は常に流動的であり、意味が本質として最終的に「確定」することはあり得ないのだ。(一体、それが「確定した」ことは、つまり記号の同一性=本質は、神でなければ誰によって保証されるというのか。)
とはいえ、実際に作家が何らかのものを創造しようと仕事をする時には、何かしらの形で「本質」のようなものが仮構される必要があるというのも事実ではあるだろう。作家にそれを保証するのは、作家が生きている現在のリアリティーであったり、実際に手に触れることのできる物質の感触=感覚であったり、過去の偉大な作家たちの残した偉大な(偉大だとされている、あるいは偉大だと信じることができる)作品たちだということになるだろう。しかし作家はその「本質」を確信していると同時に、その確信の無根拠さをも知っていて、いつもその無根拠さに刃を突き付けられているはずなのだ。本当に何かを確信し切った作家の作品は、恐らく高慢で鼻持ちならなくて俗っぽくて観るに耐えないのではないだろうか。「本質」などという言葉は、ある程度「感覚」を共有している者たちの間でだけ通用する言葉であって、勿論、作家も観客もある程度はそのような共同体の内部でなければじっくりと作品を作ったり観たり思考したりすることなど出来ない訳なのだけど、それはあくまで人工的に仮構されたものなのであって(しかし、否応なくそこに巻き込まれている、という意味では、ほとんど自然環境のようなものなのだと思うが)、つまりそれはいつも歴史的、限定的な「本質」なのであって、それを一足飛びに、超=歴史的な、「事物の存在」のような次元に結びつけてしまうところに、前田氏の根本的なウソ臭さのようなものを感じてしまう。