こうの史代『夕凪の街桜の国』

こうの史代『夕凪の街桜の国』。この作品は「ヒロシマ」という圧倒的に大きくて強い現実を題材としている。そして、この作品の強さは、そのような大きな現実に依存していない。この作品を支えているのはあくまで表現として組み立てられたものの内部の強さであり、繊細に張り巡らされた様々な細部の配慮の、全体としての響き合いであろう。勿論それが「ヒロシマ」という現実と無関係であるというのではない。この作品はまさに、「ヒロシマ」という捉え切れない程の大きな現実に対し、個々の人間がそれとどのように(どの程度までに)関係することが可能なのか(あるいは不可能なのか)、という問いによって生まれているように思う。だからこそ、作品は、現実の大きさに寄りかかることは出来ないのだと思う。
●マンガとは「絵」をもつ表現である。この作品は絵の力によって成り立っているとも言える。スクリーントーンを使用しない、白の目立つ淡々とした線描で描かれる風景。そこに配置される人物の仕種(この作家は人物にとても魅力的な仕種をさせる)、衣服、そして特に「手」の表情の繊細な表現。それはこの作品の基本的なリズムやトーンを決定しているように思う。例えば、『夕凪の街』のラストで、死につつある主人公をあらわす空白のコマの連続が、表現としてあんなにも強いものとしてたちあがるのは、このマンガ全体が、紙の白の美しさに対する繊細な配慮のゆき届いた線描によって描かれていることと無関係ではない。抜けがよく、白の目立つ、しかしあまり達者とは言えない線によって、丁寧に描き込まれた画面は、淡々とした表情ながらも、視線をしっかりと受け止める視覚的抵抗をもつ。どこか自信なさげで、輪郭を強く区切ることをしない描線は、形態よりも線の表情そのものを際立たせる。形態の内部と外部とを貫く紙の白によって、コマ全体、ページ全体に共通する(一体化させる)空気が流れ、同時に、線の多彩な表情によって、視線はそれぞれ風景や人物にしっかりと立ち止まる。このことが、『桜の国』において、多数の人物やその記憶が交錯するという作品のあり様を、スムーズに招くことになろう。
●『夕凪の街』では、「ヒロシマ」の痕跡はより直接的な形で存在する。主人公の皆実は被爆したが、その10年後も健康に生きている。彼女にとって生活は、(周囲の多くの人たちが亡くなったのに)何故自分が生き残ってしまったのか、という罪悪感のようなものとしてあり、それは、死体の山のなかを、死体を踏みつけ、死体の下駄を盗んでまで逃げた場面の記憶と一体になって、淡々と進行する穏やかな日常生活の裏側で、何度も回帰してくる。そして同時に、被爆者である彼女は、病弱な母親を抱え、自分自身もいつ死に直面するか知れないという潜在的恐怖と共に生活し、かつ、他者からの視線を常に意識することが強いられている。この作品では、罪悪感や恐怖、他者の視線への意識などが強く押し出されるのではなく、日常的な活き活きとした描写の端からにじみ出るように伺えるという風に描かれる。(例えば主人公は夏でも長袖のシャツを着ている。)この作品は、その日(8月6日)の出来事の大きさ、その表象不可能性をめぐるものではない。その出来事に遭遇してしまった者の、その後のあり得るべき生(そうあるしかない生)をあくまで「人間」的なものの側から描いている。(《十年経ったけど/原爆を落とした人はわたしを見て/「やった!またひとり殺せた」/とちゃんと思うてくれとる?》)だから下手をすると一般的な「難病もの」「トラウマもの」と同質の構造をなぞるものになってしまう危険もあるだろう。それを回避していると思えるのは、恐らく丁寧な取材や考証と、それに基づく描写が優れているためだろうと思う。
主人公は「それ」を直接「見てしまった者」であり、何度も回帰し、自身の生命をも蝕む「それ」と共に生きることを強いられる。主人公のささやかで淡々とした生活は、圧倒的でコントロールの効かない「それ」の回帰への恐れ、「それ」の回帰を回避しようとする慎重さによって成り立っていると言える。(《わたしが忘れてしまえばすんでしまう事だった》)しかし勿論「忘れてしまう」ことなど出来ないし、例え忘れることが出来たとしても、身体に直接刻まれたものは潜在的に進行し、ある日突然主人公を襲うことになる。
●『夕凪の街』の空白のコマの強さは、前述した「絵」によるものだけでなく、ナレーション(語り)の力にもよる。この作品のナレーションは、途中までは普通に主人公の内面的な語りをあらわしているようにみえるのだが、途中からその感触を僅かにかえる。具体的な場面としては、主人公と母親が交わす「どうしたん皆美/泥だらけじゃ」「うん...こけた」「なんか/だるうて/...もう/寝るわ」という会話(セリフ)と同時に同じコマに配置される、《お母さんはあの日のことを見ていない》《顔が腫れてひと月も目が開かなかったのだ》《わたしが忘れてしまえばすむことだった》というナレーションとの不思議な乖離感が、場面とナレーションとの同時性を軽く疑わせる。この、はっきりとではない「軽い」乖離感が、この作品全体が、死に瀕して失明した主人公の回想であるかのような感触をかすかに匂わす。(これははっきりと構造的にそうなっているとは言い切れなくて、あくまで「感触」としてのみ浮かびあがるものだ。)この感触が、作品全体にある種の凝縮性をもたらし、さらに、空白のコマの「白さ」に力を与えているように思える。そしてもしこの作品全体が主人公の想起によるものだったとしても、最後のページの6コマ、とくに最後の1コマは、主人公によって「見られたイメージ」ではあり得ない。(最後の1コマ以外は、冥界からの視線と解釈出来なくもないけど。)そしてこの1コマが、この作品の世界が決して主人公の死によって閉じられることのない、「現実」と繋がっているのだということを、重く伝えている。(そしてそれが『桜の国』へ繋がる。)
●『夕凪の街』は、「それ」を「見て」しまい、「それ」を直接受けてしまった者の話であるのに対し、『桜の国』は、直接的にはそれを経験した訳ではない者にまで「ヒロシマ」という大きな出来事が与える影響をめぐる話であろう。だから『夕凪の街』が、「それ」を見てしまった主人公の生に集約されてゆくのに対し、『桜の国』では、作品全体を束ねる主人公は存在するものの、多数の人物の生や記憶が交錯することで成り立つ。(『桜の国』の主人公の七波は、『夕凪の街』の主人公の被爆を逃れた弟の娘である。)この作品の登場人物の多くにとって「ヒロシマ」との関係は間接的なものである。主人公=娘にとっては、被爆者であった母や祖母の死によって、父にとっては妻や母との関係の記憶によって、(主人公の)弟にとっては女性との交際に対する相手方の両親からの拒絶によって、「ヒロシマ」と繋がっているに過ぎない。おそらくここまで「距離」があってはじめて(時間が経ってはじめて)、人がそのあまりに大きな出来事と「どのように関係することが出来るのか」という主題が可能になる。だからおそらく、作家が本当に描きたかったのは『桜の国』の方であり、繊細な描写の力や構成力が十分に発揮されていて、作品としてもこちらの方が重要であるように思う。しかし勿論、『桜の国』は『夕凪の街』という30ページ程の短く凝縮された作品があってはじめて成立するものであり、あの空白のコマの力へのあり得べき返答として成立しているのだろう。複数の人物の視点を複雑に折り込みつつ、(その効果によって)ラストに両親の「記憶」に入り込んでしまう主人公=娘が、《生まれる前/そう/あの時わたしは/ふたりを見ていた/そして確かに/このふたりを選んで/生まれてこようと/決めたのだ》と語ることで「(母親が被爆している)両親の結婚と出産」を肯定することが、『夕凪の街』の空白のコマへの返答となることで、この連作は閉じられる。これはあまりに美し過ぎるのではないかとも言えるが、多分、人間に出来る事はこのくらいで精一杯なのだとも思う。