●『たまこまーけっと』2話。これすごいな。なにこのクオリティの高さ、と驚いてしまう。『中二病…』とは大きく異なった、デジタルエフェクトを最小限に抑えたフラットな画面の色彩設定の美しさにまず驚く。この色彩は『ピングドラム』を超えてるかもとさえ思った。あらゆる場面、あらゆるカットにおいて色彩の設定がかっこよく(その色がなぜそこにあるのかがいちいち納得できる)、密度があり、しかも決め過ぎていない。止まっている絵としての色彩配置ではなく、あくまで動いているものとしての色彩。かなり大胆に色を使っているけど全然下品にならないし、響きが濁らない。そして演出がまたすごく細やかで、細かいところまで芸が行き届き、効いてる感じ。1話の演出はちょっと鼻に着く感じだったのだけど、「いかにも」な感じがかなり抑制されていた。女の子の動きのとらえ方とか(カットがかわってパッとフレームが近寄るタイミングとか)、細かい動かし方とか、冴えてるなあと思った。
空間の配置も面白く(商店街の寄り合いが銭湯の脱衣所のような場所で行われるというアイデアとか、面白い、何故、脱衣所に階段があるのか謎だけど、そこに階段を配置するセンスに感心させられる)、キャラクターの配置のバランスも含め、商店街という設定空間のもつ潜在的な可能性が、今後どのように生かされるのかという期待がすごくかきたてられる。あと、全体のリズムは決してせかせかしていなくて、雰囲気としてはゆるさや脱力感を強く漂わせつつも、実際の場面転換は早いというかとてもきびきびしていて、むしろ進行にはスピード感があり、一つ一つの場面においても、その場面を切るタイミングのセンスの良さ(個々の場面は、もうちょっと見せてもいいんじゃないかと思うくらいに早々に切り上げられる)とかに感心させられる。
しかし一方で、「けっ、カマトトもいい加減にしろよな」という言葉を、奥歯を噛み締めるようにして呑み込んでいないと観つづけていられない、というところがあることは否定できない。「この世界の根本」が、どうしても信用ならないというか、主人公の無垢さ(無自覚さ)に、世界の重要な何かが賭けられているという世界像への不信(だが、このような不信は多くのアニメ作品に対してあるので、それがどの程度まで強く出ているのかという度合いの問題なのだけど)がある。
とはいえ、『けいおん』よりはこちらの方が受け入れやすいのは、商店街という空間の広がりと登場人物の雑多さがあるというだけでなく、「言葉をしゃべる鳥」の導入によって、虚構性の次元がひらけ、それによって、リアリズム(的な表現)がそのまま抽象性(機能性、記号性、遊戯性)を帯びるという回路が成立しているからではないかと思う。それによって、主人公の無垢さが、世界の重要な何かが賭けられたものではなく、あくまで、世界の中で機能する「要素の一つ」であるように感じられるようになる、ということだと思う。
まあ、ぶっちゃけ、この鳥の存在そのもののもつ根本的(性的)な下品さが、主人公の無自覚さを埋める代補となっている(俗流心理学的に言えば、「この鳥が主人公の無意識――性欲――である」かのように機能する)ことで、わざとらしさ(カマトト臭)が、作品全体の力の流れとしては構造的に回収されているということもあるだろうけど。こういうやり方はアニメでは特にめずらしいということはなくて、例えばこれを徹底して意識的にやったのがピングドラムのペンギンだと思う。だから重要なのはそのような解釈にあるではなく、この鳥の「機能」が今後どのように展開されるのかというところだろう。2話を観る限りでは、今後この鳥は、(パスされるボールのように)恋をしている登場人物たちの間を渡り歩いて欲望を解放する、「(性的な)欲望の精霊」のような役割−機能をもつと予想されるのだが(2話が、時期とは微妙にズレているバレンタインの話であるということは、そういうことではないだろうか)。観るべきものは意味ではなく、そこで展開されるフォーメーションとパスまわしとその効果だと思う。