●「発見」はあらかじめプログラム組み込むことが出来ない。だからこそ発見と呼ばれる。未知なものを求めて前人未到の海原に船を出しても、その先で発見されるのは出来合いのオリエンタリズムだったりすることもしばしばだ。むしろ、発見という言葉に含まれるロマンチックな響きこそが問題かもしれない。日々くり返されるルーチン化された日常のなかで、親しげであるはずのものから浮かび上がる細かな齟齬こそが、私と世界との関係を揺るがし、それに微調整を強いる。それはほとんど意識されないかも知れない。だがその微調整の積み重ねは、知らないうちに何かを変えてゆくだろう。あらかじめ安全と決められたテリトリーなどこの世界には存在しない。ただ、比較的親しげで、リラックスでき、そこでは十分に力が発揮できる(と信じられる)領域は必要であろう。使い慣れた素材、くり返されるストロークに混じり込む僅かな齟齬が、画家にある変質を迫り、それを可能にさせる。画家は、ある発見によって(決定的に未知なものに触れることによって)自らが積み上げて来た技術が一瞬にして瓦解してしまうような「幸福」を夢見つつ待機しながらも(未知のものに対して身体を開きつつも)、同時に、そのような「幸福への夢」などなくてもやってゆけるように、日々、自らの技術の精度を上げるように努力をつづけるのだ。(精度を上げるということは、齟齬を均すということではなく、無数の齟齬を拾ってしまうということなのだが。)そのようにして積み上げられ、鍛えられた技術も、それが生身の人間の身体上で作動するものである以上、体調や調子や気分に大きく左右されるのは避けられない。画家はおそらくスポーツ選手に似ている。イチローでさえ、調子の波は存在するだろう。不安定な身体の上で実現される技術は、体調や調子や気分、環境、加齢、などに決定的に左右される。(そして資質や才能に強く規定される。)おそらく、技術の精度が上がれば上がるほどそうなのではないだろうか。そして、「技術」を取り扱う人は誰でも、このような自身の身体というシステムの不安定さをどのように扱うのか、どのように調整するのか(あるいは調整を放棄するのか)について、頭を悩ませているはずだろう。(下らないネタにマジレスしてしまった。)