●みんなが同じ条件、同じルールのもとで競争するのが平等だと言う考えが基本的に間違っていて、みんなが同じ条件で争えば、その条件にもともと最適化していた人が一人勝ちするに決まっている。そこで、同じ土俵に上らないで済むために必要な条件は、大きな流れから切り離されたローカルルールが成立する小さなサークルの「自律的循環」が成立することだろう。ただ、それを、異なる複数のローカルルールが並列的に存在するという風にイメージすると、その外側に、異質なルールたちを並立させるための包括的な空間(全体)が想定されるという「相対主義」となり、その包括空間(グローバル空間)全体を律する統一的メタ・ルールが要請されるということになってしまう。
(例えば「世界文学」という言い方がされるとき、「世界」という言葉で上記のような「様々なローカルルールを包括する空間」がイメージされているように思われる。だから、そのような言い方には違和感がある。)
おそらく、今、最も重要で困難な問題は、どのようにして、小さくて閉じたサークルの自律的な循環(自己再生産)を成立させ、走行させるのかということだと思う。そして、一見矛盾するかのように聞こえるかもしれないが、そのために必須なのがネットワークという概念なのだと思う。ネットワークは空間ではないから、「全体」がない。サークル1とサークル2があるやり方で関係し、サークル2とサークル3が別のやり方で関係する時、サークル1、2、3の全てを包括する均質空間(全体)は成り立たない。しかし、直接的な関係のないサークル1とサークル3も、サークル2を媒介として間接的な関係をもつ。とはいえ、サークル1とサークル3は同一空間上にはない(いわば異次元の存在である)から、ここには三つ全てを同時に見渡せる俯瞰的視点(メタ・ルール)は成立しない。サークル1のメンバーにとってサークル3の存在は原理的に不可知であり(サークル3はサークル1に対して閉じている)、しかし不可知であるまま、サークル2を媒介としてそこからの影響を受け、また、そこに影響を与えもする。
グローバルではない、個別にローカルな関係の網の目が「自閉」を可能にする。ネットワークは、複数の閉域を繋げるのだが、空間的にではなく線的に繋げることで、繋がりながら「閉じること(異次元であること)」を可能にする。だからそれは「閉じて」いるが、同時に相互関係による変化もある。だがその変化は、ルールを一気に、一様に、一方的に、塗り替えてしまうようなものではなく、同一空間には存在しない複数のものたちの「見えない相互作用」による変化であるはず。
(例えばオタク文化の凝集力と拡散力とは「閉じている」ことによるのではないか。おそらく先進国であれば世界じゅうどこにでもオタクは存在するだろう。しかし、どんな場所においてもオタクは主流派ではなく、隅の方に遠慮がちに存在するのではないか。その特殊な様式によって周囲と壁をつくり、閉じている、その一定の敷居の高さによって、一般化、平均化、均質化や数の(暴)力から免れ、独自の様式、美学、趣味を維持しつつ、それを凝集、洗練させる。閉じることで可能になる凝集性によって逆に、世界中に拡散されるだけの固有性、凝縮力、強度をもった文化を維持、成立、更新させているのではないか。)
千葉市美術館の展覧会を観た時、1923年以降の「公衆(グローバル空間)」に向けて作品を発表することをやめてしまったデュシャンが考えていたのは、上記のようなことだったのではないかと思った(デュシャンは、それまでの作品の、再制作やミニチュアやマルティプルを、主に、贈与や売買という形で発表した、それは「一点ものの作品」よりは多く、公衆の前への展示を経ずに私的空間へ直接入り込むが、出版物や工業製品よりは少なく、通常の経済的関係よりずっと狭く、内密的、仲間内的である)。
(グローバルな)市場原理によってでも(美術館や研究や批評による)公的な権威-価値概念によってでもなく、閉鎖-ネットワークモデルによる「芸術」の成立を目指すというようなイメージだったのではないだろうか(アート界とは別の市場、美術批評や研究とは別の言説の場が、開かれた場としてではなく、「閉ざされたコアな人たちの関係と関係の間から」生まれることを目指す、というような)。
●ところが、『魂と体、脳』(西川アサキ)のシミュレーションによると、このような、俯瞰的視点のない閉鎖的二者関係のネットワークモデルにおいても(というか、そこにおいてこそ確実に)、ほとんどグローバルといってよいような(複数ではなく)「唯一の貨幣(メタ・ルール)」として機能するものが、自然に創発されてしまうというのだ。このことをどう考えればよいのだろうか。
●今までの話と関係があるような、ないような。下記のブログで読めるラトゥールのテキストがすごく面白い。《もしすべての者たちが、同一の文化と異なる自然を持っているならば、世界全体がどのように見えるのか》。清水高志さんのツイッターでリンクされていた。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/ea91eb0a48dbe6d1aa231bd1dcf7663a
《(…) ヴァリャドリッドの神学者たちが、インディアンたちは魂をもっているかどうかについて話し合ったのに対して、当のインディアンたちは、大西洋の反対側で、征服者たちが堕落しているかどうかを調べるために、彼らを溺れさせることによって--—それは、彼ら(=征服者たち)が、ほんとうに身体をもっているのかどうかを見きわめる手法であり、彼らが、魂をもっているかどうかは問題ではなかったのである---、征服者たちに対して実験をしていたからである。》
《「自然主義者」が、物理的な特徴を基礎にしながら、存在物の類似性を描きだし、それらを心理的および精神的なものを基礎にして区分けするのに対して、「アニミズム」は、すべての存在物は、精神的な意味合いにおいては同じであるが、それらが授けられている身体のせいで、ひどく異なったものであると理解することで、それとは反対の位置取りをする。》
《多くの人びとの間の「文化的な」変異を見つけ出すための背景として働くような、人間と非人間の間の単一の関係の様式で地球を覆うというよりも、この背景こそが、念入りな探究の対象となった。人びとは、文化において異なるだけでなく、自然において、あるいは、とりわけ、人びとが人間と非人間の関係を構築する方法において異なる。デスコーラは、モダニストやポストモダニストのどちらもできなかったもの、すなわち、自然主義者の思考の様式の上っ面の統合性から逃れる世界に到達することができたのである。》
《ハードであれソフトであれ、科学者たちは、一つの自然と多くの文化という考え方には等しく同意する一方で、ヴィヴェイロスは、もしすべての者たちが、同一の文化と異なる自然を持っているならば、世界全体がどのように見えるのかということを理解しようとして、アマゾニアの思考(それは、レヴィ=ストロースが言ったような「野生の思考」ではなく、十分に飼い慣らされかつ高度に洗練された哲学であると、彼は主張する)の研究を推し進めようとする。》