●晴れたまま、すごく近くで雷が派手に轟き、落雷で五分くらい停電した。復旧した後も、バリバリいって落ちまくっていた。雷と争うようにセミが鳴いた。ずいぶん遅れて、台風のような豪雨が…。玄関のドアから外を覗くと、雨雲はそんなに厚くなくて、それどころか雲間から光も射しているし、少し離れたところでは青空さえ見える。雨が上がってから、もう一度停電があった。その時は寝ていた。ピーッという電気が通る音で目が覚めて、停電だったんだ、と思った。だからどのくらい止まっていたのかは分からない。
●引用、メモ。『虚構の「近代」』(ブルーノ・ラトゥール)、第4章「相対主義」より。
ラトゥールは、いわゆる文化相対主義を、「唯一の自然」とそれに対する「複数の文化」という捉え方だとして批判する。つまり、文化-人間-主体の側は相対的であっても、自然-対象-モノの側は唯一のものであって、ただ「(近代の)科学」のみが、その唯一の(純粋な、人間の外にある)自然を扱うのだ、という構えを批判し、そうではなく、それぞれの共同体が作り出す複数の(それぞれの)「自然-文化」という分配があるのだとする。そのような、文化相対主義から自然相対主義への移行は、自然を複数化する。
《すべての自然-文化は、人間、神々、そして非人間を創造するという点で同一である。西洋人のみが知ることを許された外部の自然や、恣意的に作られた記号やシンボルの世界に置かれた「自然-文化」などというものは端から存在しない。どの「自然-文化」も(特に西洋以外の「自然-文化」は)モノの世界に生きている。すべての「自然-文化」は、記号を帯びるものと帯びないものを分類する。私たちすべてが共通に行うことが一つあるとすれば、それは間違いなく人間共同体を構成し、それに取り込む非人間を作り出していくことである。共同体を構成しながら、ある文化は祖先、ライオン、恒星、生贄の凝固した血液を動員し、西洋は遺伝子、動物学、宇宙論、血液学を動員する。》
《気が付けば私たちは、私が共同体と名付けた「自然-文化」の生産という問題に直面している。思い起こしてほしいのは、自然-文化が、社会学者が解釈する社会(つまり人の中の人)とも、認識論者が思いを巡らす自然(つまりモノ自体)とも違うことである。比較人類学の観点でいえば、これらの共同体はすべて似ている。先にも述べたが、要素を分配するという意味でそれらは同一なのである。》
●だが、すべての共同体が似ているとはいえ、西洋-近代は、その「動員のスケール」が決定的に異なる。
《共同体は自然と社会の同時生産という原則の点では似ているかもしれないが、スケールの点では大きく違う。共同体の動員規模を計測するにあたって、薪を燃やすこと、私たちの頭に落ちてくるかもしれない空、系譜、荷馬車、天空を舞う精霊、天地創造といった特徴に比べて、原子力発電所、オゾンホール、人間のゲノム地図、ゴムタイヤの地下鉄車両、衛星ネットワーク、銀河群といった特徴に特に大きな重みを付け足したわけではない。(…)これらの準モノは、それぞれとまどいがちに自然と社会の両方をなぞるような軌道を描いていく。それなのに、計測が終了した時点で第一と第二の場所にはまったく違う共同体が描かれる。》
《ある共同体は祖先や恒星を必要とし、より風変りな別の共同体は遺伝子やクエイサーを必要とする。そうした事実は、共同体の諸側面が一つに纏まっていることで説明される。より多くの対象はより多くの主観を必要とする。主観の度合いが増せば、必要とされる客観の度合いも増す。ホッブズや彼の弟子が必要なら、ボイルやその末裔も同時に取り込まなければならない。リヴァイアサンが必要なら、空気ポンプも必要になるといった具合だ。それこそ類似(すべての共同体は人間と非人間を同じように混合する)を重んじるという態度である。(…)相対主義者はすべての文化を対等に扱おうとした。ただ、共同体どうしが相手を支配しようとする試みについては注意を向けなかった。》
《近代の知性や権力が前近代と異なるのは、社会の圧政をようやく逃れたということではなく、社会的結合を組み立て直し、さらにそれを延長するために、より多くのハイブリッドを追加したということである。》
●スケールに大きな違いがあるとはいえ、近代科学の対象=自然が「唯一の自然」ではないとすれば、普遍主義は成り立たない。必要なのは、共有された唯一のものではなく、諸々の計測装置という「媒介」の創造である。そしてそれはネットワークと繋がっている。
《普遍主義者は、超越的な、唯一の共通の物差しが存在するはずだという。それがなければ、言語はすべて翻訳不可能、個人的な感情は伝達不能儀礼はどれも一律に尊重しなければならないものになる。またパラダイムも共約不可能、好みや考え方となればいうまでもないと主張する。(…)絶対的相対主義者は共通の物差しなど存在しないと主張し、また存在しないことに満悦している。このように両者の態度は異なっているが、議論を展開する際に絶対的尺度への言及が必要だという点では一致している。》
《絶対的相対主義は、その宿敵でもあり兄弟でもある普遍主義同様、最初に測定器を作り出さなければなないことをすっかり忘れている。機器類の働きを無視し、科学を自然に一体化させようとする。》
《世界は計測された測定値に関わり続ける人々にとってのみ共約可能あるいは共約不可能にみえる。ハードな科学もソフトな科学も、すべての測定は測定基準自体を測っている。測定値が共約可能性を規定するといっても、測定器に目盛が刻まれる前から共約不可能性が存在するわけではない。何ものもそれ自体の力で他の何かに還元可能、あるいは還元不可能になることはない。それ自体の力ではなく、常に何かに「媒介」されている。》
《弱い相対主義は私たちを普遍から遠ざけるが、強い相対主義は逆に私たちをそこへと引き戻す。しかしここでの普遍性とはネットワークの普遍性であり、そこになんら不可思議な要素は存在しないのである。》
●「すべての測定は測定基準自体を測っている」って、とても重要。では、ネットワークとは具体的にどんなことなのか
《テクノロジーのネットワークとは、その名の通り空間に広げられた網であり、いくつかの要素が空間内にぽつんぽつんと点在している状態のことをいう。それは面ではなく連結された線である。張り巡らさせ遠くまで延びているものの、表面すべてを覆うわけではない。包括的、グローバル、組織的というには程遠い代物である。(…)ネットワークはどんな場所へも伸ばすことができ、時間的、空間的に拡散させることができる。ただし、時間や空間を満たすことはないのである。》
ピタゴラスの定理プランク定数は学校、ロケット、機械、道具の中を広がっていく。しかしアチュア人が自分たちの村を後にできないように、ピタゴラスの定理も、プランク定数も彼らの世界を飛び出すことはできない。もっとも後者は長大なネットワークを構成し、前者は地域の小さなループを構成するという違いはある。違いは重要だし尊重しなければならないが、それをもって後者を普遍性としたり前者を場所性(局在性)としたりすることはできないのである。道具や実験室などなくても、計算や解読などしなくても、重力は普遍的に存在する---西洋人がそう信じているのは間違いない。ただそれは、ニューギニアのビミンクスクミン人が人類は自分たちだけで構成されていると信じているのと同じである。》
●動員のスケールとは、要するにネットワークの長大さと密度のことなのだ。そして、ネットワークは、ミクロとマクロ、ローカルとグローバルというレベル(二項)の境界を溶解し、連続的に、なだらかに繋げる。
《例えば、IBM赤軍、フランス教育省、世界市場はどのくらい大きいのだろうか。数百、数千、数万のアクターを動員するのだから、間違いなく巨大組織だろう。ただそうなると、昔ながらの小さな共同体を生み出す力とは格段に違う力がそこに働いていると思いたくなる。ところが、IBMの内部をうろついても、赤軍の命令系統を追跡してみても、教育省の廊下を訪ね歩いても、固形石鹸の売買プロセスを研究してみても、私たちがローカルなレベルを脱することはない。常に四、五人の人間とやり取りを交わし、建物の管理人にはそれぞれ十分な監視が必要なテリトリーが存在している。》
《ローカルでもグローバルでもないとすれば、連結はどのように生じるのか。近代に生きる社会学者も経済学者も、この問題には頭を悩ませている。彼らは「ミクロ」レベル、つまり対人接触のレベルに留まるか、突如として「マクロ」レベルに駆け上がり、脱状況化、脱個人化した合理性など、彼らが信じるものしか扱わなくなるかいずれかである。(…)近代人は、途切れなくじっくりと問いを繋いでいくのではなく、周りに強烈な存在論的区分をただ押し付けてきた。

《しかしながら、そこにはアリアドネの糸が存在しており、ローカルからグローバルへ、人間から非人間へと一気に飛躍するのでなく、連続的な移行を保証している。それは実践と道具のネットワーク、文書と翻訳のネットワークが作り出す糸である。組織、市場、制度は、私たちが住む「地上的」で貧弱な関係と別の物質でできている「脱地上的」な関係なのではない。そこでの唯一の違いとは、関係がハイブリッドで構成されていて、それを記述しようとすれば大量の対象を動員しなければならないということである。》
●そして、「超越性/内在性」という対ではなく、「対立語を持たない超越性」について。普遍主義や認識論を強く攻撃しつつも、ラトゥールが決して構成論的だということではないことが、ここからも分かると思う。
《(…)超越性が通路の確保を媒介にした存在感の維持ということであるならば、私たちはそれを一度たりとも諦めたことがないのである。》
《対立語を持たない超越性を「代理派遣delegation」と名付けることにしよう。発話、代理派遣、あるいはメッセージの送付、メッセンジャーの派遣は「常に現前すること」、つまり実存を可能にしている。近代世界を諦めたとき、私たちは何かの上、誰かの上に倒れ落ちるわけではない。本質にではなくプロセス、運動、経過にたどり着くのである。それは文字通り、球技におけるパスに相当するものだ。私たちは本質からではなく、いままさに進行中の不確定な実存から出発する。不確定なのは進行中だからである。久遠ではなく、いまそこに在るという状態から出発する。連鎖から、そしてプロセス、関係から出発する。》
《最近登場したばかりの「人間」や、それ以上に新参者である「言語」は出発点として認めない。意味の世界は存在の世界であり、同時に翻訳の世界、代替の世界、代理派遣の世界、「パスを送る」世界でもある。本質についてのどのような定義もそこでは「意味をなさない」。それらの定義は存在し続ける手段、そして維持しつづける手段を実際には欠いているからである。耐久性、頑健さ、永続性はすべて、媒介者が代償を支払うことで成立している。対立語を持たない状況で超越性を探求するという試み自体が、私たちの世界を非近代的なものにする。》
●普通の人文的な知だと、「媒介者」は言語とか言説、あるいはシニフィアンとかテキストとか法とかいうことになっていて(言語=光みたいな)、でもラトゥールが面白いというか、納得しやすいのは、それが「計測器」という機械-構成物のイメージとしてあること。ハイブリッドで、具体的に組み立てられる計測器の創造とそれを使った測定が、世界を現前させ、その共約可能性を開き、ネットワークに介入する。しかしそれは決して純粋ではなく混合物であり(計測器という、不純で特殊な身体から生まれる「代理派遣」であり)、常にそれ自体として偏っている。だから、「すべての測定は測定基準自体を測っている」ということにもなる。
言語が差異の体系(デジタル)だとすれば、それは「主体/対象」とか「ローカル/グローバル」とか「象徴的なもの/想像的なもの」といった二項の「間」を埋められない。しかし世界は、その二項の間から、不純な媒介-計測器(「連続的なモノ」であり「デジタルである目盛」でもある準モノ)を通した不確定な動きとして、最初に姿を見せる。不純な媒介の超越性。
これによって、「計測器の創造」という、能動的な(可能な)行為のイメージもしやすくなる。