2024/05/22

⚫︎竹内まりやの「純愛ラプソディ」という曲は割りと好きなのだが、今まで歌詞についてはほぼ意識しないで聴いていて、なんとなく他人の彼氏に片想いするような詞なのかと思っていた。しかし、ふと《とびこんだ/温もりは/他の誰かのものだけど》という言葉が耳に残って、ん、と思った。「温もり」に「とびこむ」というのは、要するに「やってる」ということだろう(愛し方何一つ知らないままで/とびこんだ…、となる)。しかもその直後に「他の誰かの〈もの〉」というけっこうえげつない言い方が続く。

そう思って改めて聞き直すと、かなりエグい歌詞のように読める。いっけん、わたしなんて地味でいつも脇役で…、みたいに遜っている風だが、実は「お前の男、寝とってやったわ」みたいな、負けて勝つ的な勝利宣言のようにも聞こえてくる。《形では愛の深さは測れない》とか言ってるし、相手の男のことを《見えぬ鎖につながれた》とさえ言っている。それにつづく、《あなたの心奪うのは/ルール違反でしょうか》という言葉には、奪おうと思えば奪えるけど、あえて奪わない(踏みとどまる)というニュアンスを強く感じさせる。自分のことを《明るいだけが取り柄》とか《脇役しかもらえなくて》と言っているが、裏腹に、歌詞のなかでは一切言及されない相手の女(男の彼女)に対する優位感(あえて奪わない「わたし」の方に主体性がある)を感じる。

あんな女と付き合っている(あんな女から離れられない)〈あなた〉は可哀想、愛の深さはわたしのが上、と、むしろ付き合ってない(「形」にとらわれない)わたしの勝ち、みたいな。もはや相手の男さえどうでもよくて、自分一人で勝利宣言しているように聞こえてくる。

(さらにもう一捻りして、そのような勝利宣言そのものが「強がり」で、つまり傷ついて精一杯強がっている、と読むこともできるが。《セリフはいつもでひとり言》。)

ドロドロしたものをドロドロしたものとして表現する人は大勢いるし、相当にドロドロしていたとしても、それはべつにそんなに怖くない。しかし、ドロドロしたものを「綺麗な風」に表現する人は、ぼくは怖い。竹内まりやは時々けっこう怖い。この「怖い」は魅了されるという意味でもある。綺麗な風だけど実は「毒」であるという多面性は、いっけんシンプルに見えるポピュラー文化だからこそ重要で、効いているように思う。

(たとえば、森高千里の詞にはこのような多面性が一切ない。この徹底した表面性=薄さ=紋切り型にはまたべつの「怖さ」を感じる。ぼくにはこちらの方がより怖い。)

純愛ラプソディ / 竹内まりや Cover by Megumi Mori 〔044〕 - YouTube