2019-07-31

●『若おかみは小学生!(劇場版)』をU-NEXTで観た。型どおりというか、オーソドックスなことを、非常に丁寧に、とても高いクオリティで実現してみせる、というようなアニメなのかと、途中までは思って観ていた。しかし、最後にぐっと攻めてきたので驚いた(いわゆる「加害者」を登場させるところ)。これがあるのとないのとでは、全然違う。

(マイルド化した「千と千尋…」のようにも見えるが、両親は死んでしまっていて、決して戻らないという点が決定的に違う。)

途中のトラウマ描写もかなり生々しかったし、事故の場面もえげつない。幽霊や子鬼が見えるというだけでなく、亡くなった父と母をあたかも生きているかのように描写するやり方も、見方によっては主人公の精神状態の---ギリギリ持ちこたえている---ヤバさをリアルに表現しているようにもとれる。全体としては、あくまでふんわりした微温的な安定感を保ちつつも、それを壊さないギリギリのところで、可能な限り攻め込んでいる作品だと思った。

ものすごい傑作だとは思わないが、みかけほど「ほんわか」している作品ではないし、安心して「泣ける」ような作品でもない、切実な重さを含んだ作品だと思った。

 

2019-07-30

●小鷹研理さんが、『からだは戦場だよ2018Δ(ボディジェクト思考法)』の様子を25分程度でまとめた記録映像を公開しました。小鷹さん、金井学さん、ぼくの三人で行ったトークの模様も、一部みられます。

『からだは戦場だよ2018Δ(ボディジェクト思考法)』

https://twitter.com/kenrikodaka/status/1156084148055887872

https://www.youtube.com/watch?v=trrtjIsRXzY

『からだは戦場だよ2018Δ』趣旨文

http://labrec.kenrikodaka.com/2018/12/18/ksj2018d_concept/

●「『からだは戦場だよ2018Δ」にかんする、この日記でのレビューは以下で読めます。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20181223

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20181224

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20181225

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20181226

 

2019-07-29

●U-NEXTで『東京ゴッドファーザーズ』を観た。改めて、ぼくには今敏作品を受け入れることが難しいと感じた。いや、無茶苦茶すごいことが起きているというのは分かるのだけど。

物語などどうせ嘘なのだからと言ってしまえばそれまでだけど、しかし嘘の付き方が作者の都合でありすぎる、というか、その嘘の付き方は信用できないと、細かい節々で感じてしまう。

(「嘘の付き方」の代わりに「整合性のとり方」を代入しても同じことだと思う。)

その一つ一つは細部に対するちょっとしたひっかかりのようなものに過ぎないのだけど、その違和感が、観ているうちにだんだんと積み重なっていって不信感のようなものになり、画面上でいくらすごいことが起こっていても、分厚い違和感の壁に遮断されてこちらのまなざしがそこまで届いていかなくなる、というか。

(ここがひっかかるとかあそこもひっかかるとか、具体的な違和感を挙げてみるならば、その一つ一つはちょっとした趣味の問題にすぎないようなもの---言いがかりのようになってしまうかもしれないようなもの---かもしれないのだが、それらが積み重なるとじわじわ効いてきて、作品の世界からいつのまにか関心が離れてしまう。)

(「確かにすごいですね(棒読み)」みたいな感じになってしまう。)

(無意識のレベルで、リアリティの置き所がぼくとは食い違っているということだと思う。こういう作品に対しては「受け入れがたい」と言うしかなくて「批判」することは出来ない。ただ、どこがどうだから受け入れがたいのか、ということに対して、できるだけ自覚的でありたいとは思う。だから---ある程度「すごい」ということは認めざるを得ないものの---自分には受け入れがたいと思っている作品を、定期的に観直してその違和感を---反省的に---反芻してみる。)

(ただそれでも、やっぱり受け入れがたくて最後までは観られない、ということはある。)

(一本の作品として観るのではなく、バラバラに解体して、細部を個別に観ていけば、このような違和感抜きでこの作品の「すごさ」を観られるかもしれない。)

 

2019-07-28

U-NEXTで『羊の木』を観た。吉田大八監督の映画を観たのは『桐島、部活やめるってよ』以来。物語を追っていけば最後まで観ることはできるという程度の興味の持続はあったけど、何をやろうとしているのか絞り切れてないような、あらゆる要素が中途半端であるような、さえない、という感じだった。

●同じく、U-NEXTで『千年の愉楽(若松孝二)。これもぼくにはよく分からなかった。中上健次の原作から適当にエピソードを選び出して、それを適当につなぎ合わせたという風にしか思えず、中上健次の『千年の愉楽』を映画にすることで、何をどうしたかったのか分からなかった。

(ただ、「中本の一統」という概念が、高良健吾の美しさによって具現化されているようには思った。)

 

2019-07-27

●『甘木唯子のツノと愛』(久野遥子)というマンガを読んだ。「Airy Me」をつくったアニメーターの作品。

Airy Me

https://www.youtube.com/watch?v=VJ5QvrGxTnQ

収録されている四つの作品(三つの短編と一つの中編)のすべてで絵柄を変えてある。だがその変化は、スタイルの問題というより、パラメータの設定によっていくらでも違う描き方ができる、みたいな感じで描き分けているようにみえる。まるで、ある方向から撮った写真を見せられれば、その風景についてならどんな視点からでも描けるみたいな感じで、ある絵柄から別の絵柄へと、カメラの視点を移動させるように自由に移行することができる、みたいにして描くことができる人であるようにみえる。

(それができるためには「手が絵が上手い」だけでなく「頭が絵が上手い」必要があるのだろう。)

物語の主題や内容についても同様で、どの作品も、移ろいやすさやメタモルフォーゼの感触を基底にもちながらも、そのような感触が、どのような形や色合いをもち、どのような切り口や様相において出てくるのかは、パラメータの設定の如何によってどのようにも可変的である、というように作られているのではないかと感じられる。

つまり、現れているものの表面をみるのならば、(表現的にも、内容的にも)多様であり、その都度異なるスタイルで現れ、バラバラであるとさえ言えるのだが、その元には、コーヒーカップもドーナツも同型であるというような意味での、ある潜在的な同型性があるように感じられる。

この同型性は、ある原型的な形があって、それが多様に発展しているといよりも、形のない潜在的なものとしてあり、ある形式から別の形式へ、あるモチーフから別のモチーフへの移行を通してしか見えてこないようなものなのではないだろうか。とても不思議な作家性だと思った。

 

2019-07-26

●人間以外に、仰向けの状態で眠る動物はいるのだろうか。小鷹さんのツイートをみて思った。寝返りという跳躍。

https://twitter.com/kenrikodaka/status/1145596608655966208

《赤ちゃんは、寝返りを打ち始めた頃、仰向けの自分と、うつ伏せの自分とで、全く異なる自己を体験しているのではないか。なにせ、その頃は、苦労して一旦身体をうつ伏せに転じることができたところで、すぐに仰向けの状態に戻れるなどという保証はまるでない。周りに親がいない時であればなおさら。》

《素朴に考えると、これは一種の恐怖心を呼び起こすように思うが、「自己の切り分け」が、この種の恐怖から目を逸らすための心理的機制として有効であろうことは十分に想像できる。寝返りのたびに、寝返る前のことは忘却し、そのときの重力状態を主とする、まるで違う自分へと転調する。重力的自己。》

《この線で考えてみると、幽体離脱における、自己の分離による自由な感覚と、元の鞘に戻れなくなるかも的なリスキーな感覚とが同居する、例の「後ろめたさ問題」の起源を、この種の寝返りの時期の外傷的体験に求める、、そんな仮説を立ててみることもできそう。》

●直立して二足歩行する動物であるがゆえに、プレ二足歩行期として一定期間存在する、横臥状態でいることを強いられる時期。この時、仰向けであるかうつ伏せであるかという二種類の反転的な重力環境に置かれる(他者に抱き上げられれば直立に近い重力状態になるだろうが)

このどちらであるのかは、おそらく最初は完全に他者依存であっただろう。そこに、寝返りという出来事が生じる。これは、半ば能動的行為であり、半ば予想外の出来事であるのだろう。この、半ば予想外の重力反転という状況変化を、それ以前の自己に対する自己の切り分けによって処すると考えるのは納得できる。重力以外にも、目の前にあって圧迫してくる地面、自由にバタバタ動かせなくなった手足など、身体-環境の関係が大きく変わるから、自分が、別の身体-環境へとシフトしたと感じてもおかしくないだろう。

ここで起こる、自己の重力的二重化は、いわゆる鏡像的な自己の二重化、ミメーシス的(ミラーニューロン)な二重化とは出自を異にする、もう一つの別の二重化として、人間の身体で基底的に働いていると考えることができるのではないか。前者は、「わたし」と「あなた」との二重化であり、後者は「このわたし」と「あのわたし」の二重化と言えるのではないか。

 

2019-07-25

●小鷹研理さんのツイッターで知ったJoe Hamiltonの映像作品、なかなかヤバい。

Joe Hamilton

www.joehamilton.info

Merge Nodes (2016)

http://www.joehamilton.info/videos.php#merge-nodes

●今さらという感じだが、久野瑤子というアニメーターの存在を知った。大学の卒業制作だという「Airy Me」には、ちょっと「フリクリ」感がある。

https://www.youtube.com/watch?v=VJ5QvrGxTnQ