2024/03/05

⚫︎23日にある連続講座二回目のスライドを作っているが、昨日の日記に書いた桂離宮にかんするところだけでスライドが200枚を超えてしまった。ほとんどのスライドが画像のみで、パッと見せてサクサク進んでいくはずだけど、それでも桂離宮への言及だけで一時間くらいはかかってしまうかもしれない。でも、桂離宮はそれくらい重要。

桂離宮の庭園を歩く時、先頭にガイドの人がいて、最後尾には監視の人がいて、その間に挟まってゾロゾロと団体で歩くので、自分のペースで歩くことはまったくできないのだが、その回遊時間がだいたい一時間弱なので、実際に歩くのと同じくらいの時間をかけて擬似体験してもらうというのもいいかもしれない。

まだまだ手直しするが、とりあえず最後まで通してスライドを作ったことで、自分なりにかなり濃い桂離宮追体験ができた。今回見ていくのは、建築の細部とかではなく、あくまでも空間の経験についてで、たとえば、なんとか様式のなんとか屋根が使われている、とか、そういうことではない(そういうことは、ほぼ知らない)。



 



 

2024/03/04

⚫︎昨日の日記で引用したエリー・デューリングのテキストは、実際に桂離宮を訪れたことがない人が読んだら、何を言っているのかちんぷんかんぷんかもしれないが、ここでエリー・デューリングが言っていることが具体的にどういうことなのかがわかるように、YouTubeで複数の「桂離宮回遊動画」を探して、それらを切り貼りして、巡路に従ってモンタージュして(動画ではなく静止画だけど)、それと柄沢さんの本にあった図と、桂離宮の案内図とを突き合わせて、桂離宮の庭園回遊を疑似体験できると同時に、空間の俯瞰的把握もできるようなスライドを作っているのだが、作っていると、自分が桂離宮を訪れた時の体感が蘇ってくるようでとても楽しい。

 

2024/03/03

⚫︎引用、メモ。桂離宮とその庭園について。エリー・デューリング「脳に反して思考する アルゴリズム空間のパフォーマンス」(『柄沢祐輔 アルゴリズムによるネットワーク型の建築をめざして』所収)。

(以前も、ほぼ同じようなところを引用したことがあるかと思うが、改めて復習として。)

《(…)知覚できる建築の範囲においては視覚的距離については分離を、また動的近接(私たちの境界のある要素が「手の届く範囲内」にあると瞬間的に感じる感覚)については接続を思考することが自然である。もちろん、遠位と近位、視覚的と動的は程度の問題として連続的な言葉と理解することができる。ゲシュタルト心理学によって掘り下げられた知覚の法則(例として、図地反転の裏に潜む知覚の法則)は概して局所的な一連の行動の原則に従う平衡化のメカニズムに究極的には依存する。そういう意味では、「遠くの行動」は存在せず、遠位とはただ異なる、または遅れてくる近位の体験となる。しかし、空間的性質を構成する限りにおいては、程度の差異より性質の差異の方がより著しい。すなわち、最初に近位と遠位の分離がある上で、接続と分離の関係が空間の基本的な区切りや性質を明らかにする限り、出現する形態は本質的に離散的である。実際は、そのような関係性に基づき、空間自体が、結局のところすべてを包み込む媒体(均質または不筋質に関わらず)ではなく、結節点のネットワークとなる。》

《脳に反して思考することは、何よりもまず、射影空間の呪文を解く、またはその内側から破壊することである。離散性に対する期待は、射影空間の内側に見つけることができる。日本の伝統的な木版印刷や現代建築図面でよく見られるアクソノメトリック表現技法は、その代表例である。そこでは、浮遊する視点が何かと不規則に二つの相対的に互換性のない視点の間を平行移動し多安定的な透視画の構成と唐突な図地反転を許容しながらも、絵画空間の奥行き方向の連続的な拡張の錯覚を破壊する。一方アルベルティ的透視画法による表現では、遠位と近位の間に存在する全体的な連続性の感覚は水平線へと収束していく視線を辿ることへの可能性の結果、または視覚的に収斂する事実と徐々に後退する形のオーバーレイ(重ね描き)による手掛かりに依存することである。対照的に、水平線が欠落している、または倍増している場合、空間全体が中断され、幾分不連続である。二つの異なる軸に規定され、それは本質的にせん断しているように見える。》

《上記とは幾分異なるものの、その間接的な体験は三次元映像といくつかの建築物によって体験することができる。桂離宮とその周辺の庭園での体験は、建築の構成の可能性について非常に貴重な例を示す。書院と庭園をつなぐ小径を散策すると、それぞれ切り離された風景を周遊する視点が、自身の動作によって再構成するという、特有の動的性質を体験できる。植物や建築の要素は表面上切り取られ、透明な平面に貼り付けられ、お互いに覆い被さりながら、まるでアニメーション動画のために描かれたようにみえる。変動する光と影の移ろいが混じり合った混合体を引き立てるために通常の遠近の配置をぼやかすことで、庭園は即時に広々として平面的、かつコンパクトで不思議なほど無形的になり、見る者が中心性の感覚を取り戻したり、調整しようとするにつれて、視差移動の絶え間ない相互作用が行われる。人工的にアニメーション化された、自然の変化する風景によって伝達される全体的な印象、または矛盾する視覚的、動的な合図の満ち引きにより引き起こされる視点の一定の置換は、体外離脱体験による無常力状態、または無重力状態での飛行の感覚に類似している。それはまさしく自身が遠くに没入している、いわば即時的に接続し切断するような超現実的な質の立体映像に非常に近い。》

《書院建築については、その雁行配置が「シフトする平面の積層」を好み、「すべての対称性や中心性を放棄する」方法として磯崎新によって適切に説明されている。これらは「人間の視点を中心として空間に奥行きを無限の彼方に向かって先導する、西洋遠近法とは際立って対照的に、奥行きを表現する」ように配置されている。内部はある基本的な要素をモジュール化して繰り返すことで発生する移り変わる空間であり、多様なデザインパネルと連結する仮想ボリュームの積層によって偶発的に不透明化されている。ヴァルター・グロビウスによると、「平面には静的な概念、対称性、中心的な焦点がない。ここでは芸術創造の唯一の媒体である空間が、魔法のように浮遊している。ように見える」。その体験は、より形式的なレベルにおいて、離宮の全体的な地形の中で、これらの領域それぞれが他の領域と関わる相対的なアクセシビリティと不可視性の交錯する関係性よって強化される。》

《空間は浮遊している。空間の中の何かではなく、空間自体が、である。流れているのではなく、浮遊している。》

⚫︎以下は、『柄沢祐輔 アルゴリズムによるネットワーク型の建築をめざして』で示されている桂離宮庭園のダイアグラム。

 

2024/03/02

⚫︎引用。メモ。『建築における「日本的なもの」』(磯崎新)、第二章「カツラ――その両義的空間」より。桂離宮の庭園にかんする、とても優れた記述だと思う。《由来も手法も異なる庭園の各部分を連結させるのは、そのなかを通過する視線である》。「虚の透明性」だ。

《ここで共通している視点は、桂が、文化的系譜、建築様式、政治的引力、階層的関係、そのいずれにおいても明快な判定を下すことが不可能なほどに複合した関係性のなかに絡めこまれていることを指摘することである。それを、併存とみなすか、拮抗とみるか、妥協とみるか、融和とみるか、統合と見るかは、それぞれの言説の意図するところによって異なる。だが、いずれにも共通するのは、桂が、内側に矛盾し対立する要因をかかえこみ、それが幾重もの意味を発信している事実である。それを、桂がもつ両義性といっていいだろう。》

《(…)ここでも桂の過渡的性格があらわになる。それは、数寄屋造りとしてシステム化されるにいたらない、前段階にある、近世的な書院づくりを、草案的なものを手がかりにして崩していく、そのさなかにあった。それ故に両方の性格が重なり合って浮かびあがり、読解の視角に応じて、どちら側にもみえはじめる。》

《桂の書院が二つの様式の重なり合いからつくられたように、庭園もまた、王朝的な舟遊びの庭から、近世的な回遊の庭への移行過程をそっくり包みこんでいる。雁行配置は、その段階を組織化する手法として用いられた。大まかに三つにわけられる庭園も、水と苑路が、それを縫い合わせる手掛かりになっている。》

《初代トシヒトが桂を構想したとき(一六一五年以降)、桂は、瓜畑のなかにある簡素な茶席であった。古書院がそのときの建物であろうとみられるが、池は、いまの神仙島のある周辺だけであったろう。このあたり、池の端はやわらかい曲線をえがき、寝殿造り前庭の面影が残っている。寝殿造りの前提は、縁の前に白砂が敷かれそのむこうに池が掘られた。このなかには必ず島が築かれ、橋がかけられた。池面には竜頭鷁首のついた舟が浮かび、ここでは酒宴などが催された。》

《この初期の庭園から、池が東北側の松琴亭前と、西南側の笑意軒前の二つの方向に、その後拡張されている。これは、それぞれまったく異なった特徴的な手法をもっており、ともに二代トシタダの手によると考えられる。》

《松琴亭前の池は中央に天の橋立を模した島があり、全体に岸辺は石組みによって構成されている。初代トシヒトの妻常照院の生国若狭から、天の橋立のモチーフがとられたといわれるが、こみいった石組みは、ここが松琴亭に併設されている囲い(茶席)へ御幸門脇の御腰掛から卍亭を横にみて到達する露路庭の扱いにもなっている。》

《いっぽう、笑意軒前の池は、単純な直線で、その護岸にも切石が使われ、全体に幾何学的に構成されている。また新御殿前の芝生の敷かれた単純な空間である桜の馬場と連なって、西南側を強い構成的景観に仕立てている。》

《王朝風の神仙島附近にたいして、この二つの拡張された庭園は、いずれも近世になって生み出された庭園手法に基づいている。ここでもまた、小堀遠州が作庭した、上皇ゴミズノオのための仙洞御所が、そのモデルとみられる。天の橋立附近の石組みは、仙洞御所で遠州好みとして残っている出島附近の手法に近い。笑意軒前の直線的構成は、同じく扇動御所の切石を多用した幾何学的な池や流水の護岸の手法を思わせる。》

《この由来も手法も異なる庭園の各部分を連結させるのは、そのなかを通過する視線である。ここでもまた雁行配置に向い合う視線のように、中心を常にズラし、移動させられる。この視線の移動を編成するのが、巡路である。》

《庭園は、水と陸と両方から眺められていた。その際の回遊路の編成は、位置を強制的に決めることになる。庭園内の茶室は庭にひらいた縁側をもっているが、それはここに腰掛けて、庭園を眺める際の眼の位置を決める。その楼という名称から、高い位置から見はらすための建物である。》

《腰掛けや縁台は、回遊する視線を、特定の位置に固定する仕掛けである。松琴亭の室内より重たい軒先で仕切られた、横にひろがる天の橋立。峠の茶屋と呼ばれる賞花亭より樹木ごしに眼下にみる池の曲線。階段を昇ってはじめて到達する笑意軒の奥へさがった縁よりの、おおらかさを感じさせる光景、など、性格の異なる手法の庭が、視線の位置の固定によって、その特徴がいっそう強調される。》

《茶室からの眺めを、一定の時間にわたる休止点とするならば、それを連結する苑路は、たえず変化していく光景を小刻みに感知させる装置である。砂利敷き、真・行・草、さまざまなパターンの敷石や飛び石、むくり勾配の違う各種の橋、石段、坂道など、接地する箇所のテクスチュアがきめ細かく変えられる。それは、歩き方を意図的に規制することによって、呼吸を支配する。速度や回遊路を自在に選択させながらも、あらがわせずに、視線をうごかす演出である。》

《この陸上の苑路が、視線をたえまなく振りうごかすように編成されているとすれば、池のうえの舟遊びの際の視線は、逆にそれを水面近くに固定して、水平の移動だけに限定する。舟がすすむにつれて、光景が向こうから立ち現れてくる仕組みである。》

《(…)回遊性の視線は、空間内に固定した軸の形成をたえず拒絶することになる。視線は常に移動する。そのとき光景は分断されていく。その切り取られた断片を連結する仕掛けが、陸と水上に設定される回遊路なのである。雁行配置が平面の重点とずれによって空間の深奥性を表現したように、回遊する視線は、光景を断片化して、それをたたみ合わせ円観的な構造を導き出す。》

(追記。去年の1月31日の日記で、ほとんど同じ箇所を引用していた…。)

 

2024/03/01

⚫︎『不適切にもほどがある ! 』第六話。「おじさんが昔話をするのは17歳に戻りたいから」とか、そういうわかりやすいきれいごとに持っていこうとする手つきには依然として抵抗を感じてしまうが、それでも、すごい展開力だなあと唖然とするように眺めている感じ。まさか河合優実を未来に連れていくという流れになるとは思ってもみなかった。

1995年以降の世界を知ることができない娘に、その先にも続く未来を見せようとする。彼女が見ているのは、自分が死んだ後にも存続し続けている、大きく変化したと同時に変わり映えのしない世界と、そこで成長した未来の娘の姿だ。

娘の側から考えると、若いとはいえ、おじいちゃん=阿部サダヲは孫=仲里依紗より年上ではある。しかし、仲里依紗は今度は、逆転して自分より若い母に対面することになる。

(『アリスとテレスのまぼろし工場』では、未だ母でない、というか、永遠に未然の母であり続けるしかない未・母のもとに、決して到達できない未来から「娘」がやってくるのだが、ここでは、母が、決して到達できない未来へやってきて、成長した娘に会う。娘の側から見れば、自分より若い母の幽霊に会っているようなものだが、母の側から見ると、『アリスとテレスのまぼろし工場』に近いことが起きていると言えるのか。)

河合優実が17歳であることが強調されることで、1986年と2024年、そして1995年という三つの客観的な時間のほかに、仲里依紗やファーストサマー・ウイカが17歳だった時代、阿部サダヲが17歳だった時代という、個別の時間の層がたたみ込まれる。17年以上生きた人は、誰もが17歳であり、誰もが17歳ではなくなる。そのタイミングがズレているだけ。過去と現在の対比と係争だけでなく、そもそも、今、この時それ自体に、複数の時間の層が含まれていることが改めて意識される。そして、仲里依紗やファーストサマー・ウイカが17歳だった時代からの「遺物」としてエモケンが登場する。

(動いている阿部サダヲを見ているとしばしば忘れるが、阿部サダヲの役は設定では美輪明宏と同じ年に生まれた人で、「スキャンダル」のマスターである沼田爆より五つも年上だ。阿部サダヲとエモケンがあたかも同世代で、同類おじさんであるかのように見てしまうが、阿部サダヲがポロッと「俺が17歳の時はテレビはなかった」と口にすることで、その違いが改めて意識される。実は、ズレ=断層は至る所にある。)

(河合優実の役柄が、1986年の1月か2月くらいの頃に17歳だということは、おそらく86年は18歳になる年で、ならば1968年生まれということになって、ぼくと一年違いのほぼ同年代だ。)

そもそも、テレビ局が舞台となっているだけで自己言及的だが、さらに脚本家とドラマ制作班が出てくることでさらに自己言及度が増す。過去は確定しているが、現在は不確定で開かれている。故に過去と現在は等価ではない。ドラマ制作班が物語の中に入ってくることで、「今、まさに放映中であるこのドラマ」の反響が、自己言及的にドラマ内に反映されるということが今後あるのかもしれない。

(過去と未来とが干渉しまくっているけど、これはタイムパラドックス的にどうなのかとは思う。厳密なSFではないから細かいことはどうでもいいとしても。前回、古田新太が、河合優実は不良仲間と縁を切って現役で大学に合格すると言っていたが、そのきっかけがテレビ局でバリバリに働いている仲里依紗と出会ったことなのだとすれば、母が、未来の娘の影響を受けることで父と出会うことになり、「輪廻の蛇」問題が生じてしまう。)

(ぼくの記憶では、80年代のボンタンは、ニッカポッカみたいに裾が狭くはなっていなくて、ただ、ひたすらストレートに足の部分が太いだけだった。ボンタンというよりドカン(土管)と言っていた気がする。《今日も元気にドカンを決めたらヨーラン背負ってリーゼント》(「ツッパリ・ハイスクール・ロックンロール」)。長ランが短ランになり、ボンタンの裾が狭くなっていくのはもっと後のことだ。)

2024/02/29

⚫︎中田秀夫「霊ビデオ」(「学校の怪談f」)がニコニコ動画にあったので観た。97年の作品だから、『女優霊』より後だけど『リング』よりは前という時期の短編。ブレイク直前の勢いを感じる。Jホラー初期の短編は、今ではなかなか観られないが、ニコニコ動画にはけっこうある。この頃のJホラーは、今まさに新しい何かが生まれつあるという、生き生きした感じに溢れている。ホラーを観ていてそのように感じるというのは不適切かもしれないが、今観てもワクワクするというか心躍る感覚がある。

この作品と、鶴田法男「何かが憑いている」(「学校の怪談 物の怪スペシャル」)は、人間関係系のホラーの傑作だと思っている。どちらも、中学の時は仲が良かったが、高校に入って疎遠になってしまったという二人の女の子の関係が軸になっていて、その関係を丁寧に描き出すことの背景から「幽霊」が浮かび上がってくる。幽霊が、人間関係や人の感情の動きに還元されるわけではなく、霊は霊として自律した存在だが、それでも、人と人との感情の間に幽霊が入り込んでいてその描写と不可分になっている。おそらく、高橋洋黒沢清は、こういうことはしないだろう。

たとえば、黒沢清「花子さん」(「学校の怪談 物の怪スペシャル」)でも、学生時代の人間関係やいじめなどが絡んでくるが、いじめで自殺した人の幽霊と「花子さん」とは全く別の論理で動いている。「花子さん」は人間関係と全く関係なく独自のあり方で作動する呪いだ(「花子さん」の脚本は黒沢清ではないが)。

ここで、人間関係系のホラーで幽霊を誘発する関係がほとんど女性同士の関係であるというところに、明らかになんらかのバイアスがあるのだが、このバイアスについてはただちに否定するのではなく、丁寧に解きほぐして考える必要があると思う。

2024/02/28

⚫︎オムニバス『アリア』の中のゴダールが作った篇(『アルミード』)がニコニコ動画にあった。ああ、あった、こんなの、あった、という感じで観た。この頃(『アリア』は87年公開)のゴダールの、いわゆる本編からややズレたところで作られた作品(他にはテレビのための『映画というささやかな商売の栄華と衰退』や、『フレディ・ビュアシュへの手紙』のような短編、『映画『パッション』のためのシナリオ』、『ゴダールのマリアのためのささやかな覚書』などのビデオ作品とか、レナウンのCMとか)、エスキース的な、ちょっとしたアイデアを直接的に試すみたいに、ちゃちゃっと撮って、ちゃちゃっと作ったみたいな作品が、シャープでシンプルでナンセンスでキレキレで、すごくかっこいいのだが、ゴダールでさえ、メインからややズレたような作品はなかなか観られない。80年代のエスキース的な作品にこそ、ゴダールの創造性の生き生きした感覚が(冴えた手つき、みたいなものが)、最も直接的に出ているんじゃないかと思う。