正月というのは新春とか言って、一年の始まりではあるのだけど、実際にはこれから本格的に冬になっていく訳で、冬というのは多くの生命にとって死の影が近づく時期で、終わりの季節でもある。だからということではないのだろうけど、ここ数日やたらと葬式が目につく。毎日、一日に一、二度は、葬儀の花環や白黒の幕のある家とか、駅前で案内する葬儀やの人とかを見かける。電車の窓からなんかも、あの白黒の幕がよく目につく。そういえばもう十年も前のことになるけど、ぼくの祖父が亡くなったのも、一月の初め頃だった。
人が死ぬという感覚が、だんだんと親しいものになってきた、という気がする。親しいもの、なんていうと誤解されるかもしれないけど・・・。さすがにまだ、自分が死ぬということに関しては、あまりリアルに考えられないのだけど、知っている人がこの世の中から居なくなってしまう、という感覚がかなり分るようになった、ということだ。でも、当然だが、決してそれに、慣れた、という訳じゃないけど。(多分、一生、慣れないのだろうなあ・・)
 『一つの根から何本もの幹が、ほうきを逆さにしたような形で生えている、ひのきの幹や枯れ枝の表面は、つるっとしていて、気味の悪いほど無機質な感じ。』
 『冬でも不快緑の葉をたっぷりとつけているヤマモモの木。』
 『黄土色に染まった芝生の上を歩く。』
 『さざんかの赤が、ばらばらと散らばる。』
 『黒いシルビアの車体に映っている、黄土色や紅色の枯れ葉と空。』
 『向こうから、ダッ、と走ってきた、白いジャンバーに赤いパンツの小さい女の子が、道の真ん中で、バタッコケた。』
 『陸橋の上から見える工事現場の広い平面。ショベルカーの、カクカクとした動き。断続的な衝撃音。寝不足。頭痛。』
 『窓際のシクラメンの鉢植え。葉や花が溢れるように、鉢の外へ向かって盛り上がり、拡がっている。上空に米軍機の音。』
 『マンションの窓に、夕日が反射している。』
感覚を全開にして、その場、そのもの、それ自体を、自分の身体を通して感じ、触れることは、勿論大切だし、そういう感性ががさつな奴には、結局重要なことは何も見る事ができないとは思うけど、でもそれだけじゃ、全然足りない。やはり、抽象的な思考、論理的、形式的、もっと言ってしまえば、あえて貧しく図式的に思考することさえ、必要だと思う。
抽象的な思考とは、多分、身体を亡くして生きる、亡霊の思考だとも、言える。現代を生きる人間であるなら、誰でも幾分かは亡霊である、ということからは逃れられない。生き生きとしたもの、ばかりを追いかける人は、そのこと(自らも亡霊であること)から目を背けて、誤摩化してしまっているのだ。
抽象的な思考は、日常生活に何の役にも立たない。それは人をしばしば孤立させる。それによって人は、決して豊かにはなれない。それでも"それ"は必要なのだ。でも、何故・・・。